京都で吉岡流憲法、奈良で宝蔵院流槍術、三重で宍戸の鎖鎌と闘い、それぞれに勝利した宮本武蔵は、その後しばらく江戸のさる旗本の屋敷に逗留している。
兵法者としての武蔵の名は、江戸でも知られていた。
世話をした旗本は召抱えたいと申し出たが、彼はこれを断っている。
仕官が望みだった。しかし、武蔵は気位が高かった。旗本ふぜいの家来になって、たかだか数石の禄取りなんぞ、はなから眼中にない。後に徳川家、尾張徳川家の武芸指南役の話が来た時、彼はこう希望した。
「三千石賜りたい」
この時代の武芸者は地位が低い。徳川家の指南役の一人、一刀流の小野次郎右衛門は最初は二百石だったが、こつこつと六百石まで上り詰めた。もう一人の柳生宗矩は例外的に一万二千五百石だったが、これは家康が彼を側近にしたためであった。そもそも柳生は小野とは違い、武芸で召抱えられたわけではない。
尾張徳川家指南役の柳生兵庫助は六百石。それも初めは五百石からのスタートだった。当時の事情から見れば武蔵はかなり吹っ掛けており、その態度からどれほどプライドが高かったかがうかがい知れる。
そんな武蔵だが、旗本に対して断るにしても無下にあしらわず、言葉を選んでいる。
「兵法の道を極めとうござる」
本音は「へっ。冗談じゃねえや」だったろうに。
この本音と建前の使い分けは、日本人がアートとして極めた物の一つである。例えば意にそぐわぬオファーを受けた場合、相手の面子を守ると同時に自分の面子も守る。だから建前と嘘は違う。
近頃は本音をずばっと言うのをためらわない人も増えてきたが、日本人のコミュニケーションの根幹は基本的に変わっていない。最近の新入社員はブログ型だと言われているようだ。それは表では従順なふりをして、裏ではブログに本音をぶちまけるという意味だとか。
それにどこか非難めいた響きを感じるのは僕だけではあるまい。目上の人間からしてみれば、目下の者は表も裏も従順たれというのが本音なのではないだろうか。
しかし、それは望み過ぎというものである。誰にでも自分の本当の気持ちとは全く正反対の事を表明しなくてはならない時が多々ある。そのはけ口がなくなったら、パンクしてしまうではないか。
一昔前は赤提灯で酔い、その勢いで同僚や店の女将に本音を話し、今はカタカタとキーを叩いて不特定多数に本音を投げかける。まあ、今の人も酒を飲んで「部長がさぁ」とやるだろうから、ネットという武器があるだけアウトレットが多いので、少なくともブログ一つ分恵まれている。
「今の新入社員はブログ型」から発せられる非難めいた響きは、若者の方がストレスのはけ口が少しだけ多いという、嫉妬という名の本音から来ているのかもしれない。
武蔵の話に戻ろう。
三千石にこだわり続けた武蔵は最後まで仕官がかなわなかった。
彼は自分を高く売ろうとし続けた。一介の剣術指南役であれば三百石ほどでも良いが、自分は剣だけの男ではない。いずれは政治の世界にも足を踏み入れたいと考えていたのである。だから徳川秀忠が二刀流を見たいと言った時もこれを断っている。剣術でしか評価されないのは彼にとって侮辱に等しかったのだ。
実際、武蔵は多才であった。現在、重要文化財として残っている絵や彫刻の腕前も高かったし、町の設計も手がけている。それもこれも、剣の道から抽出した物の考え方に由来している。彼はその眼差しを政治に向けたいと願った。
晩年、彼は細川家の客分になっている。客分には身分がない。相談役や顧問みたいなもので、何百石という石高もない。武蔵は大名家に仕官するのは避けていた。自分は特別なので、仕えるなら将軍家か御三家だと思っていたからだ。しかし、客分は身分の序列に組み込まれないので、武蔵は条件をのんだ。
当主の忠利は武蔵のために特別手当の制度を作ったばかりか、家老にしか許されていない鷹狩りも許可した。一介の浪人に対する配慮としては格別である。
しかし、とんでもなくプライドの高い男はこれで納得したのだろうか。
死を迎える前、武蔵が霊巌洞で書いた五輪書には、独行道という項目が設けられている。
一、一生の間よくしん(欲心)思わず。
一、我事において後悔せず。
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。
一、私宅においてのぞむ心なし。
等々・・・・・・。
俗世における一切の執着を否定したこの二十一箇条は、ひょっとすると、望んだ形で召抱えられなかった宮本武蔵の、精一杯強がった建前なのかもしれない。

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