
▲「我、抜刀する時すでに勝負あり」は上杉謙信の信条かも知れませんが、多くの人が信条としていますので、盗んだことには相当致しません。但し、「言葉として残っていれば」判断のしようがありませんので、言い伝えに従うだけです。(言葉として残されていれば、お知らせ下さい)唯、刀を抜かずに相手に宣告すべき言葉ではありません。しかし、使いたければ使ってはいけない言葉ではありません。自己責任になると云うことです。
|
0
▲故、景山民夫氏は、事故で死んだのか?霊的要因によって死んだのか?(氏は生前愛を自慢する風情で愛を説いていたように記憶します。それが原因なら同様行為は注意しなくてはいけなかったのです)大川総裁の氏の死因に関しては、弁はことなかれ主義に終始していた感がありました。 罰の当たるような霊的現象はよくないのです。
|
0

霊的に目覚めると目下の者が途中で目上の者に変わることがある
想い癖は論理思考の一種でありますが、変えることはむつかしいと思います。たとえば目下の者が途中で目上の者に変わったも、にわかには変えることができないと思います。礼節などは変えられますが、注意がお節介になったりするのです。このようなケースは頭の良い、悪いの問題ではなく、癖の問題なのです。しかし、霊的立場からすれば、途中で変わると云うことではないのです。初めから目上だったのです。どうゆことか?と云えば「醜いアヒル」童話にあるように、アヒルの仲間の中にいた白鳥の幼鳥が「自分は醜い、醜い」と思っていが成鳥になって自分は白鳥であることが解ったと云う話です。霊的に目覚めて霊感などを獲得すれば、この世的な知能に拘る必要はなくなり、目下だった者が目上の者がな変わると云う事態は十分あり得るのです。
0

▲疑念とは、自分の心の中に生じるげんしょうであり、客観的には関係ない現象です。対して客観的に問われる現象は疑惑と云うことになります。従って疑念は外部から責任は問えません。(証拠や根拠の得られない現象に疑念を抱くことは外部から咎められないのです。良心に従って自分で規制すべきことです)疑惑を言葉や文書に出せば責任が問われます。疑惑には根拠がなくてはいけません。(証拠や根拠を得られる状況では勝手に疑念とすることは間違いてす。証拠や根拠を得てから口外すべきことです)
|
0