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日比谷高校とは?
名門都立高校の代名詞であり、
一中 ⇒ 一高 ⇒ 帝大 という戦前からのエリート供給ラインの一翼を構成して以来、日本の各界に亘って人材を供給し続けてきた、いわばエリートポール。付言しますと、意外と忘れられがちな社会科学の前提条件が、文化を変えるためには制度を変えるということ。明治政府によって江戸時代以来からの教育から文化・慣習あるいは因習を変革するための、中等教育における制度装置の一環として据え置かれたもの。現代に至るまで初等・中等教育における識字率や教育力の世界における分布状況の低調さを考えあわせると当時としては画期的な制度装置でした(
「識字率による国順リスト」 も参照。)。
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公式の創立年は、1878年 (明治11年)となっています。地方の公立名門校の場合、江戸時代の藩校以来の流れが厳密には断ち切れているケースが一般的で、それでも藩校由来を強調する学校が多い中、東京府中学 (日比谷高校の前身) は明治新政府のお膝元にあって、「学校制度」のモデルケースとして設立された由来があるため、江戸以来の昌平学校(昌平坂学問所・昌平黌) を由来とすることはついに無かった。
新政府 (明治政府) は、各地方・地域の掌握の為に、各地方の自立を警戒し、できるだけ各地方立中等学校に対しては、創立当初から、東京府中学や大阪府中学などのように、「県立」や「府立」といった各地方の設立による名称を許容しなかった。
それでも、当初から地方 (東京府) と明治政府 との間にも擦れ違いがあったようで、東京府のお役人は東京府中学を高等教育機関として、一方、文部省や東大、それに明治政府は、設立されたばかりの
帝国大学まで続く初期教育機関として位置づけようと考えていました。
そうした理由で、全校で400人から500人以上在籍(一学年生徒数の誤りから全校生徒数に訂正)していた生徒らも卒業年度を待たずに大学予備門 (のちの一高) や官私の各種専門校、既存の受験予備校などに移るケースが散見された。
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ちなみにこの時代の出身者は、日比谷高校の卒業名簿には多くの資料が喪失したなどの理由で詳細に把握・記載されておらず、その他多くの著名人に関しても、晩年になって伝記や著作などで自ら著して判るケースが多い。例えば
夏目漱石の場合、のちの「私の経過した学生時代」の記述により、卒業・出身者名簿に記載されるようになりました。
軍人であれば
南次郎、政治家の
秦豊助、立命館創立者の
中川小十郎、旭化成やチッソの創業者の
野口遵 、昭和恐慌前後に日銀総裁だった
土方久徴、これらの人物はのちの伝記などにより公に明らかになっています。
さらに、はっきりしてないが、蔵相や日銀総裁を務めた市来乙彦、鉄道次官を務めた久保田敬一、「腕の喜三郎」と呼ばれた検察のドン・鈴木喜三郎・・・ などなど、名前を挙げてゆけば枚挙にいとまもないが、これら著名人も、実際に短期間であれ在学していた可能性は大いにあります。あとで触れる共立学校(開成高)や東京英語学校(日本学園)といった当時の進学予備校各校に在籍経由で、大学予備門(第一高等学校)などの旧制高校の進学階梯を上っていった人たちが記録に残っていない人も含めてかなりの数にのぼると思われるからです。
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