「自意識の病い」とは欠落感・情念・夢想の恐怖を膨張させ、しかも外界と接していく内に、その想念が日常性に馴致しないようにと自閉的に完全に閉じこめて鍵を掛けてしまうことだ。しかも、この背後から論証と思想を加え、まるで同じ鍋で煮込むかのように食い尽くしたとしても、その思想はまったく意図から逸脱した病理として出現することになる。小林秀雄の世界はまさにそれだ。
孤独な時間を多く持ち、人との関わりを遮断することで醸造し、さらに浄化していく厭世観がそこに育たない訳がない。疎むと言うよりは疎まれず、遮断すると同時に遮蔽されること自体の自覚が、彼自身には存在しなかったといえる。
狂気が狂気と感じられず、その自閉した自意識と他者との接点に振幅する摩擦感覚が、実社会全体と実体験の異常として残っていた。彼が自己を巨人や亡霊のようにさえ錯覚したとしても、実は実体のない妄想癖のある脆弱な人間がそこに屹立しているだけだ。
他者との関わりの未熟さは、その妄想とは逆比例し、関係意識の希薄な彼にとって、物事や相手の意見を実体に即して対象化することは困難だった。 こんな彼の恐怖は、純化した観念世界を日常性に馴致され、世間に暴露されてしまうことだ。
穏やかな視線の恐怖は、実は仮想の視線の恐怖であり、自浄した思い上がりの自分が相手の思念も全て見切れていると思う錯覚からのしっぺ返しに過ぎない。現実体験を豊富に繰り込み、対話し内省しさらに対話しという日常性の累乗と蓄積があって初めて繰り込むことが出来る、相手を考えないで出来る見る目の獲得なのである。
その人間が自閉した内的世界を実世界と渡り合わせるとしたら、異性との関係しかなかった。そこに長谷川泰子という存在の大きな意味がある。中原中也と同棲し、小林秀雄と恋愛し三角関係から破綻までの、一番困難な出会いがこの関係だけに、苦渋の恋愛には違いなかった。しかし、彼にとってのこの関係は彼女との関係に過ぎず、彼の観念に入り込む社会性との接触でもあった。彼に欠落していた性の甘美さは、ここで始めて実経験として自意識内に融解し、自意識の問題とならず、際だつ自己意識として自らの世界に閉じてしまう結果となった。


0