はうん。疲れた。
ライトノベルの新人賞の締め切りが迫っていて、なんかバタバタしている。
今回もう無理かなと思ってたんだけど、とりあえず昔書いて発表も投稿も何もしてない作品に関しては、手直しをしたうえで何かしらの賞に投稿しておこう…と思っている。
しかし、コミティアの日にこの原稿のフロッピーがどこかにあるはず…と思い出さなかったら、いま書いてる小説は存在そのものが忘れられていたことだろうな。
何かのミステリの賞に出そうと思ってたやつで、文章があまりにライトノベルらしくなかったから、書き直した。
ほとんど手直しを終えてから思ったけど、ミステリがライトノベルの範疇に属するのかどうかはよくわからない…。知識が足りてない。
キャラをけっこうデフォルメしてあるから、まあライトノベルなのかな?と思っている。
あるブログが2ちゃんねる等で話題になったとき(特に、「ヲチ」(ブログウオッチ)を好んでする人たちに気に入られるのは、自らのちょっと痛い生活や思考をぶちまけている系のブログだと思う)、必ずといっていいほど、「このブログに書かれているのは実は創作なんじゃないか」「作者は、ブログの『主人公』とは別に存在するんじゃないか」という意見が出る。
こういうのが、ネットの面白さのひとつなんじゃないかと思う。
ブログというものが「仮面性」をあらわしているのだとすれば、それはかつて三島由紀夫『仮面の告白』について語られた、創作者として仮面を身につけるということではなく、もっと日常に切迫して、「仮面」というものが存在しうるという可能性がそこに示されているのではないかと思う。
もっと言うと、日本の私小説というジャンルには、こうした意味での「仮面性」がつきまとっているのではないかと思う。
文章が書かれ、物語が作られた瞬間、作中の人物(特に語り手や主人公)は驚くほどデフォルメされ、「キャラ化」する。
日本の文学には、多かれ少なかれこういう面があるのではないか。
多くの人が、ブログを読む楽しみとは芸能人のゴシップをワイドショーで見るような「覗き見」感覚だと言う。それもまた、正しいのかもしれない。
だが、私にとって重要なのは、読者が実は「私の前に立ちあらわれる顔の知れないヴァーチャルな人格」を意外なほどに欲しているということだ。
私たちにとって大事なのは、個性の偉大さではなく、「デフォルメされた人格のヴァーチャル性」ではないのか。
(いわゆる「偉い」「立派な」ブログよりも、どういうわけか「偏った」「痛い」「ヤバい」ブログの方が人気がある。)
ブログに関する議論はこのぐらいにして、小説の話である。
今回は、ある女子校の文芸部の生徒たちが運営する「架空の生徒のメンヘラ風ブログ」に、犯人と犯人を装う人間が書き込みをし、その予告どおりに事件が起き、ついには架空の存在であるはずの女子高生が文芸部の面々の前に姿を現す…みたいな、大体そんな話だ。
ライトノベルらしく萌え系のキャラを素直に量産したほうがいいとは思うのだが、個人的にあまり好みではないせいかうまく書けないので、結局キャラは自分好みの変人ばかりになっている。
古い時代の紳士のような女子高生とか、『相棒』の右京さんみたいな女子高生とか、「こんな奴いないよ」というキャラばっかりになってしまった。ゴスロリお嬢様の双子姉妹とか。
「架空の生徒」(探偵)役の女子高生は鳥栖みさえというんだけど、これも「トリスを飲んでHawaiiに行こう」というコピーと、法学者の来栖三郎からとったものだったりする。
一貫して、「フィクションと現実のあわい」にものすごく興味がある。
基本的に、フィクションと現実を峻別する考え方(「現実逃避するんじゃない」とか「二次元萌えなんて…」とかいう…)は好きではない。
上に書いたブログの話のように、フィクションはつねに現実の中に無雑作に転がっていると思う。
その区別がついてないのが私なので、基本的にそういう人間が愛おしい。

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