例えばセッションに五人のドラマーが居たとしよう。同じセットなのに全く違う音が聴こえて来る事は明らかだ。
例えば一本のストラトキャスターを四人のギタリストが全く同じセッティングで交互にプレーしたとしよう。明白な違いは誰にでも聴き取れる筈だ。ボーカリスト一人一人の声が違うのと同じ様に全ての楽器には弾き手の声がある筈だ。
なのにどうして多くのプレーヤーは人と同じ音を求めてしまうのだろう?
確にお手本があれば基準はそこ。非常に分かりやすい。イビチャオシムは仮に日本人が、レアルマドリッドを真似をしたチームを作っても本物には勝てない!だからこそ長所を活かした日本化が必要と著書で語っている。
この真似るという行為は非常にモッタイナイと感じる私は、この国では異分子なのだろうか?
(個人的には仮に真似るなら、例えばロバートジョンソンを真似るならあの独特のタイムこそ同期すべきポイントだと思っているが…。)
しかしながら、人と違えばそれで良いとも思わない。音の個性とは自己申告により成立するものではない。絶対にないのだ!
それでは余りに安易過ぎるのではないか?
私は私見として以下のように思う。もしあなたが楽器を持った岩元恭生や栗田貫一や清水アキラやコロッケをめざすのでなければ……
『自分の音を出さなければ、存在意義はない。だが、その音が第三者にとって如何に有意義であるか?それとも否か?聴いた人に何をもたらす事ができるのか?そうでないか?が存続の分かれ目なのではないか?』
例えプロでも来ない音は来ない、趣味の人でも来る人の音は来る!私は感心より感動が欲しい!!また自分自身もそうありたいと常々思っている。