東京ローカル・ホンクの木下弦二さんから初めて電話をもらったのは もう二年ほどまえの夏だったろうか その時にどういう会話をしたのかは忘れてしまったが 僕たちのバンドを知って欲しい 聞いてみて欲しいという彼の気持ちだけはまっすぐに伝わってきた これも何かの縁(えにし)かと思いその後の僕は彼らのライヴに幾度となく足を運び またこれからも もっとライヴに行ってみようという思いは募るばかりだ 東京ローカル・ホンクの良さをどう表現すればいいのかはよく解らないのだが 今日もまた僕と同じように東京の空を眺め 同じような街並を歩き 戸惑いながらも呼吸をしていることは間違いなかった そんな風に自分の側にいるという親しみを持てるバンドに出会ったことに奇跡にも近いような感慨を抱いた まるで広告代理店が書いたような気取った歌詞や 見せかけのポーズや虚勢 あるいは英雄的な態度に終始しがちな日本の音楽シーンのなかで 彼らはいつもの商店街を行き交う人々を観察し 各駅停車の窓から流れる雲を追いかけたりしていた 彼らの織りなすサウンドスケープもまた大向こうを張るのではなく 微妙な感情や陰影そして日向の匂いをデリケートに運び込んできた ときには伊豆半島まで遠出したり草の燃える匂いを嗅ぎながら 結論を急がない心のありようみたいなものは形になりにくい でも僕は東京ローカル・ホンクの答えとか結論を求めない音楽のあり方に惹かれ続けている そうまるで池に投げられた小石のように (小尾隆 2009年6月23日:記)

2009/2/15

2月14日  

上記リード文で紹介したポール ウィリアムスのよう
に 自分の感性で受け止めたことをそのまま文章化し
ていくような論評が育ちにくいことは 不幸なこと
だった

ウィリアムスの別書『ニューヨーク ブルース』の
訳者が あとがきでいみじくも書いているように
ロック博士というか周辺の豆知識的なことばかりに長
け 音楽や歌の核心を突くような評論は 
残念ながら 日本では稀なのである
近年で言えば『ロック検定』なる本がそうした偏向を
象徴するのではないだろうか

そんな意味では現状に絶望しています


*多くの批評家や研究者が歴史的認識や史実の
確証に汲々としているなか ウィリアムスは最初
に音楽を聞いた時の感動へと立ち返らんと常に思
っているようだ





2009/2/28  7:30

投稿者:obin

席を挟んで相手がいるのに携帯でメールを打ちまくる
人とか あまり気分がいいものではありませんね
でも今の高校生ではそれが当たり前の光景だったりす
るように 時代の位相というものは変わっていくのか
もしれません そういえば客がいるのに店主がネット
をしている飲み屋なんていうのもありました 二度と
行かないけど(苦笑)

2009/2/27  19:42

投稿者:Almost Prayed

インターネットへ参加してみて、自分が最もうんざりさせられていること、それは、目先の論戦に単に勝ちたい「だけ」の連中、自らの優位性を単に示したい「だけ」の連中が、あまりにも多過ぎることです。意見交流や議論を行う以前に、それらに必要となる一定のルールやマナーを著しく欠いているとしか思えない輩が何と多いことか。

ネットの普及により、情報の発信や入手が容易になったのは確かですが、ではそれが豊かな人間性の涵養や深化につながっているかと言えば、残念ながらそれは否、と答えざるを得ません。ネットの世界に耽溺する以前に、基本的な教養や思考力、そして想像力を身に着けるほうが遥かに必要なことなのですけどね、それに気付いている人々は現在どれだけいるのでしょうかね。

2009/2/26  17:50

投稿者:obin

そんな意味では僕もネットの現状には絶望していて
何らかの見解を言うこと自体が徒労に感じることも
あります blogブームも mixiブームも今一段落し
たような状態で 今後5年〜10年といったスパンで
どう変化していくのか 僕自身ちょっと読めない部
分はあります blog自体がそもそも自分を切り売り
して他人に見てもらう あるいは他人の私生活を覗
き見するといった倒錯したところから始まっている
わけで そうした”自分語り” ”他人覗き”に人々が
飽きるといったことは大いに考えられますね
昔の人々が培ってきた習わしとか風習ってそれなり
に意味があることで けっしておざなりに出来ない
んじゃないか などと死生観を含めて考えるこの頃
です 『悼む人』も深いです

2009/2/26  13:16

投稿者:路傍の石

ネット社会には、小尾さんがおっしゃるような”卑近な仲間意識”を打ち破って、各々が世界観を押し広げるような可能性があるとかつては信じていました。でも現状を見る限り、拙が望むようにネットがリアルと補完関係になるまでに成熟したとはまったく言い切れなくて、生活を便利にするツールの域に留まったままのような気がします。ほとんどの人がインターネットという名のユビキタス情報社会の恩恵のなかで何ら新しい意識を芽生えさせることなく溺れています。日々恐ろしい勢いで巨大化するGoogleという化け物が人々を無能化しているのでは?そんな新たな危惧を拙に抱かせているのですが・・・。

2009/2/26  2:27

投稿者:obin

前回言い足りなかったこともあって再度書きますね

>共通の価値観を持った友人だけと交流する
>矮小な世界観だけが築かれていく

そのことはすなわち異なる価値観を持った人を
排除するといった方向へと流れているのが悲し
いかな 現実なのかもしれません

ライ クーダーのファンであればキューバ音楽
への関心はブエナ ビスタにとどまらずアルセ
ニオ ロドリゲスやアバネーロ楽団ら より古
い録音へと向かってキューバ(ソン)音楽の温
故知新に触れてみる そういった知的好奇心を
持った人が当たり前だと思っていたのですが
現実はどうやらそうでもないみたいですし 過
古の歴史から学ばない人はどうしても独善的な
民族意識や世界観へと傾いたりしがちです

趣味というキーワードを用いて即時的にネットで
仲間が増える反面 実りは少ないような世界です
ね 実はそうしたことを多くの人が気付き始めて
いる、、、というのが実態ではないでしょうか

個人的には卑近な身内意識ばかりに支えられた
サークルには何の刺激を受けることもないし
ただ気持ち悪いなあ 稚拙だなあと思うばかり
です そんなことは人間的な広がりや洞察力と
はまったく関係ないので あまり関わりたくな
いですね 
 


2009/2/18  18:04

投稿者:obin

たとえば ヴァン モリソンを知っている人を前提に
してヴァンのことを書くよりも  彼のことを知らな
い人のために話すことのほうが ずっと難しいけれど
価値があることだと思います

また音楽に詳しいことと 音楽を感じることとは
まったく別のことのようにも思います

そんなことを解っている人は 大人だなあ


2009/2/18  13:40

投稿者:路傍の石

ここ数年感じること。
いわゆる世間話ができる人が少なくなったような気がします。
仲良しの友達と話すときは大抵趣味の話か自分のことについて。
メールやmixiの影響なんですかね。ひたすら自分語りをする人が年齢に関係なく増大しているような気がします。
現代は交流の輪が広がっているようで実は狭まっていて、
年齢・趣味・性格ともに自分に近い人を見つけて共通の価値観を持った友人とだけ交流する。
そんな狭いところに閉じこもって互いに自分語りを繰り返しながら矮小な世界観だけが築かれていく。
これが実情ではないかと思います。

昔のことを思い出せば、職場をはじめ偶然の出会いの場で人と交流するには世間話が不可欠でした。
世間話ほど馬鹿にできないものはありません。
異なる価値観を持ったもの同士が会話をするには言葉によるコミュニケーション能力がなければ出来ないことです。
そして、それによって他人や社会のさまざななことに想像力を膨らませていったように思います。

結局のところ、かつてとは違ってきた世相が音楽評論のあり方をはじめいろいろなところへ波及しているように思います。
自分しか語れないから、客体的な考察能力が殺がれていってやがて主体的な視点すら失われていく。それは人間性の欠落にほかならず、人の脳には無味乾燥な情報処理能力だけが残されると。世の資格・検定ブームの背景に見え隠れするものは意外とそんなところかもしれません。

2009/2/16  9:08

投稿者:obin

「ああ、この人は丁寧に聞き込んでいるなあ」
そんな風に思える人にはやはり共感します
そして単なる音楽馬鹿に陥らないためには
いい書物や映画にも親しんでおくことでしょうか

almost prayedさんがおっしゃるように
日本において「私的な」文章とはとかくパンク的な
態度やらストーンズ的なるものへの模倣やらに変換
されがちですね

ミーイズムと私的な考察とは異なりものだという
ことは ウィリアムズを読めば理解出来るわけだし
自分がない文章ほど無味乾燥なものはありません

もしそこに音楽があるのなら
それを聞く人の物語もあるだろう
というのが私の基本的な考えです




2009/2/16  1:31

投稿者:Almost Prayed

申し訳ありません、下記の文章の一部を訂正させてください。

(原文)>音楽を聴く上での新たな視点や
(訂正)>音楽を聴く上での新たな視点の獲得や

2009/2/16  1:25

投稿者:Almost Prayed

この問題を論ずるには「(音楽)評論とは何か」、そして「音楽評論はどこまで必要とされているのか(かつ有用か)」という、最も根源的かつ重大な命題に正対しなければならないので、文章が長くなることをお許し願います。

評論自体は、基本的にどのような手法やアプローチで行っても全く構わないと自分は思っています。ファン気質を最優先させて書くのも1つの手法ですし、音楽学的/社会学的/歴史学的にアカデミックな考証や分析を企てるのも1つの手法だと考えています。

ただ、評論にてどのようなアプローチを採るにしても、その論者の考えや意見あるいは視点(「主体」と言い換えてもいい)が感じられない文章、また本質的で深い領域へは決して論考を加えようとはしない内容のもの(例えば、音楽そのものに対する印象や意見を打ち出すのではなく、ひたすらCDとかの「製品」説明になってしまっていたり、ただ無条件に「褒める」だけの提灯記事)では評論としての価値は皆無だと思います。

自分の感性を通して対象(音楽)を語る、という姿勢は評論においてはとても基本的なことで、そこにこそ「主体」というものが生まれると思うのですが、日本では「音楽そのものを語る」というよりも、「音楽に影響を受けた自分を語る」という方向(これは「ロッキング・オン」誌を中心に広まったものですが)へ向かった感がありますが、この両者は似ているようで本質的には全くタイプが違いますよね。

音楽の聴き手としての読者からすれば、音楽を聴く上での新たな視点や価値観の書き換えを促すような、そういった視点や論点を読者に提示していくことが評論の役割だろう、というのが自分の率直な考えです。

ちなみに「ロック検定」についての自分の意見ですが、日本人は「資格」とか「検定」というのが大好きというか、こういう趣味や感性の領域でも、第三者のお墨付きがなければ満足できないとでもいうか・・・ 枝葉末節の知識を付ける時間があるならば、もっと音楽そのものに正面から向き合うことのほうが遥かに重要なことなのですが・・・

果たして、音楽はどこまで「聴かれて」「必要とされて」いるのでしょうか?

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