東京ローカル・ホンクの木下弦二さんから初めて電話をもらったのは もう二年ほどまえの夏だったろうか その時にどういう会話をしたのかは忘れてしまったが 僕たちのバンドを知って欲しい 聞いてみて欲しいという彼の気持ちだけはまっすぐに伝わってきた これも何かの縁(えにし)かと思いその後の僕は彼らのライヴに幾度となく足を運び またこれからも もっとライヴに行ってみようという思いは募るばかりだ 東京ローカル・ホンクの良さをどう表現すればいいのかはよく解らないのだが 今日もまた僕と同じように東京の空を眺め 同じような街並を歩き 戸惑いながらも呼吸をしていることは間違いなかった そんな風に自分の側にいるという親しみを持てるバンドに出会ったことに奇跡にも近いような感慨を抱いた まるで広告代理店が書いたような気取った歌詞や 見せかけのポーズや虚勢 あるいは英雄的な態度に終始しがちな日本の音楽シーンのなかで 彼らはいつもの商店街を行き交う人々を観察し 各駅停車の窓から流れる雲を追いかけたりしていた 彼らの織りなすサウンドスケープもまた大向こうを張るのではなく 微妙な感情や陰影そして日向の匂いをデリケートに運び込んできた ときには伊豆半島まで遠出したり草の燃える匂いを嗅ぎながら 結論を急がない心のありようみたいなものは形になりにくい でも僕は東京ローカル・ホンクの答えとか結論を求めない音楽のあり方に惹かれ続けている そうまるで池に投げられた小石のように (小尾隆 2009年6月23日:記)

2009/4/12

リズムと理由  

一般にロック史に於ける8ビートの確立は
エディ コクランの59年曲「サムシング エルス」が
最初と言われています

4〜シャッフルで刻まれるロカビリーやR&Bに対して
初めて ”ビートの均等割り” を開拓したのが
このコクラン曲で叩くアール パーマーのdsであったと
(ボンゾ氏は「ロックンロール」でそれを忠実に再現)

しかし当時斬新だった8という概念も
次第に新鮮さを失っていき リズムやビートに意識的
な音楽家たちは 16打ちもさることながら
ポリリズムの援用(チャーリー ワッツ&オーリーE
ブラウンなど)などに活路を見出してきました

あるいはYMOのような頭脳派集団になると
機械と人力を同期させるという方法論に打って出ました
高橋ユキヒロ氏がアル ジャクソンのそれを尊敬して
いることは広く知られていますね

むろんデイヴ エドモンズのようなロックンロールの
優れた後継者は 4と8の噛み合わせや
頭と尾っぽのどちらにビートの着地を求めるのか
といったニュアンスを醸し出し続け
「おお、解っていらっしゃる!」という信頼を
勝ち得たことは  言うまでもありません

定形化したビートはやがて鮮度を失ってしまう
私が先のウィンウッドの書き込みで言いたかった
ことも もともとはそれが発端でした
私より年下でいらっしゃるalmost prayedさんが
的確な反応をしてくださったのも
嬉しかったですね

機械ビートとヒューマン ビートの超克

この一見矛盾するテーマを自らに課したのも
また ウィンウッドでした
ことさら評価が芳しくない82年作『バック イン
ザ ナイト』でも 彼はレイ チャールズのような
”揺らぎ感”を機械ビートとともに「アンド アイ
ゴー」のなかで 実践しています

リズムを主体に音楽を聞くアティチュードは
かなりの喜びをもたらしてくれます
歌詞の重要さを機会ごとに言っているような
私でさえ リズムがもたらす悦楽のまえでは
サレンダーしてしまうといったような

それにしても ”言葉の人” ではない(と思う)
ウィンウッドが リズムやビートを軸として
今までとは異なる視界を見せてくれたという
意味でも
『ナイン ライヴス』のアルバムは
多くのことを示唆していると
思っています
















2009/4/15  7:23

投稿者:obin

>無味乾燥な8ビートで埋め尽くされて、、、

おっしゃることよく解ります(笑)
少しジャンルは異なりますが いわゆるアメリカーナ
と呼ばれるオルタナ以降のルーツロック派でもリズム
面での面白さ、コクを感じさせてくれるものはあまり
ないことが いまいち僕が関心を持てない理由なんですね 「それっぽい音」「アメリカらしい音」だけで
満足することは僕は出来ません  
ウィンウッドに鍛えられた耳は お互いこだわりを
持ちますね(笑)

2009/4/15  0:18

投稿者:Almost Prayed

少なくとも日本においては、まず確実にストーン・ローゼズの最初のアルバム(1989年発表)以降、「シャカシャカした16ビート」≒「グルーヴィー」というようなイメージがある意味で広まってしまったなぁ、という感を個人的には持っているのですが、その後に登場した(ストーン・ローゼズに影響されたと思しき)ほとんどのバンドが、結局はストーン・ローゼズのようなバンド一丸のグルーヴを体現できずに、ビートの表面的な形式の踏襲に終わってしまったことを考えると、やはりグルーヴというものは当然ながら表面的な形式のみで規定/体現できるような性質のものではない、という思いが強くいたします。

4や8や16といったビートの形式的な差異ではなく、生演奏と打ち込みとの差異でもなく、要はリズムの中にどれだけ生き生きとした躍動感を吹き込むことができるか、そして理屈抜きで身体を動かさずにはいられないようなリズムの強靭なうねりを体現することができるか。それがグルーヴというものの「肝」だと感じています(ロバート・ペットウェイの“Catfish Blues”なんて、ギター1本で猛烈なグルーヴですよね)。

例えば、リズム・ボックスの簡素なビートを軸にしてあまりに独自なグルーヴを体現した、ヤング・マーブル・ジャイアンツの“Colossal Youth”(素晴らしい!)のようなアイデアもあるのですから、近年の多くのロック・バンドには、もっとリズムに対して意欲的に大胆に挑んでいってほしい、そしてもっともっと意識的になってほしいというのが、自分の偽らざる正直な気持ちですかね。なぜって、あまりに多くのバンドの作品が、どれも同じように無味乾燥な8ビートで埋め尽くされているのにうんざりしていて・・・(苦笑)

コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ