東京ローカル・ホンクの木下弦二さんから初めて電話をもらったのは もう二年ほどまえの夏だったろうか その時にどういう会話をしたのかは忘れてしまったが 僕たちのバンドを知って欲しい 聞いてみて欲しいという彼の気持ちだけはまっすぐに伝わってきた これも何かの縁(えにし)かと思いその後の僕は彼らのライヴに幾度となく足を運び またこれからも もっとライヴに行ってみようという思いは募るばかりだ 東京ローカル・ホンクの良さをどう表現すればいいのかはよく解らないのだが 今日もまた僕と同じように東京の空を眺め 同じような街並を歩き 戸惑いながらも呼吸をしていることは間違いなかった そんな風に自分の側にいるという親しみを持てるバンドに出会ったことに奇跡にも近いような感慨を抱いた まるで広告代理店が書いたような気取った歌詞や 見せかけのポーズや虚勢 あるいは英雄的な態度に終始しがちな日本の音楽シーンのなかで 彼らはいつもの商店街を行き交う人々を観察し 各駅停車の窓から流れる雲を追いかけたりしていた 彼らの織りなすサウンドスケープもまた大向こうを張るのではなく 微妙な感情や陰影そして日向の匂いをデリケートに運び込んできた ときには伊豆半島まで遠出したり草の燃える匂いを嗅ぎながら 結論を急がない心のありようみたいなものは形になりにくい でも僕は東京ローカル・ホンクの答えとか結論を求めない音楽のあり方に惹かれ続けている そうまるで池に投げられた小石のように (小尾隆 2009年6月23日:記)

2009/11/10

音楽に対する感受性  

久しぶりに『レコードコレクターズ』の86年3月号
を引っ張り出し 中村とうよう氏の『新伝承派って
ナンだ?』を読み返した 内容の主旨はとあるジャズ
雑誌でケンカを売られたとうようさんが 商業主義に
迎合したその雑誌に反論するというもの その内容を
ここで書くことに私の意向があるのではないが 私が
以前から大事にしていることに氏が触れていたので
改めて紹介してみたくなった 早速引用させていただ
きたい  

「数日前、くだらないフュージョンのアルバムのライ
ナー・ノーツに何気なく目をやったら、さるフランス
映画で15歳の少年が(チャーリー・)パーカーのレコ
ードを流しながらベッドの上で本を読むシーンが何度
も出て来たが、これが新しい聞き方であって、パーカ
ーをスピーカーの前で腕組みしながら聞くような保守
的なオジン評論家は反省しろ、と書いてあった。これ
は音楽に対する根本的な態度の違いであって事実誤認
とかではないから、別にここで槍玉に上げたりする気
はないが、パーカーのレコードをかけながら本が読め
ることは新しいことでも何でもなくて、ただ音楽に対
する感受性が欠如しているに過ぎない。フランスの15
歳の少年でなくても、ぼくの郷里の山奥のジイちゃん
バアちゃんだってパーカーを流しながらワラジを編む
ことは出来る。それをやらないのは、何にもならない
ムダなことを彼らはしないということに過ぎない。
とにかく、音楽に対する感受性もなければ音楽を聞き
たいという意欲もない少年が、ただ物をムダに消費す
るのが習慣化しているのでその習慣に従って音楽をム
ダ使いしているというだけのことである(後略)」

激しく共感します 少しだけ譲ってイージーリスリン
グなどのBGMならまだしも パーカーのように器楽の
アドリブ演奏に生命があるジャズを”聞き流す” とい
う感覚は演奏家への侮辱だと思うし それを新しい聞
き方だなどと  さも得意気に書くライターの無神経さ
にも唖然としてしまう 

「何にもならないムダなことを彼らはしない」
とうようさんの言葉は重い 人類が培ってきた叡智
というものも 恐らくそういうものだろうから

聞けないくらい沢山のCDを買い込んでいないか
一枚の「アルバム」を繰り返し丁寧に聞いているか
流行や話題に流されて音楽を”浪費” していないか
そうした私たちの現実さえ 照らし出していく問題
提起なのである

翻って自分を考えてみれば 節操や脈路なく昨日は
あっち 今日はこっちとコロコロと目先を変えるよ
うな聞き手ではないと思うが 一人の書き手として
の審判は第三者の判断に委ねるしかないだろう

「音楽は聞かなければ何も始まらない」
私が尊敬する音楽評論家 ポール・ウィリアムズの
言葉だが それはまた反語でもあろう
だから私は もう少し肯定的に言い直してみる

「音楽は聞けばすべてが始まってゆく」と







2009/11/11  14:56

投稿者:obin

sumoriさん、こんにちわ
コメント拝見しました ご意見ありがと
うございます

僕も実はテキストを書いている最中に自分
に相反する要素があることを考えていま
した 「真剣に聞け!」というのはとどの
つまり 日頃僕が嫌っているブラックホー
ク(おしゃべり厳禁で有名だった店)の
連中と同じになってしまうのではないか
という疑念です またジャズに関する僕
の態度はsumoriさんと同じように ダン
ス音楽〜ストリート・ミュージックとし
ての ”躍れるジャズ” に敬意を払うも
のですから なおさらです
僕はこんな記事を書いたこともあります

「アシッド・ジャズ〜レア・グルーヴの
DJたちが主眼とするのは、リフ一発でフ
ロアを湧かせられるかどうか。ハード・
バップの主流からはやや亜流に見られが
ちだったルー・ドナルドソンやグラント
・グリーンといったアーシーでファンキ
ーなジャズメンの再評価は、ほとんど彼
らによってもたらされたといっても過言
ではないだろう。ブレイク・ビーツに続
々と引用される彼らの ”ジャズ” は、
鑑賞音楽として行き過ぎたジャズをダン
ス音楽という本来の場所へと連れ戻す作
業だったのかもしれない。」(ジョージ
ィ・フェイム〜R&Bやジャズに大きく歩
み寄り、モッズの粋を集約:『レコード
・コレクターズ06年12月号より抜粋)

ただ とうようさんの本意は(というよ
りは僕がとうようさんの文章から汲んだ
ことですが)「真剣に聞け!」というよ
りは 田舎のジイちゃんバアちゃんを引
き合いにしながらの「何にもならないム
ダなことはするな!」にありました
軽い聞き方があたかも新しくて良いとい
わんばかりの風潮を警戒したのだろうと
少なくとも僕はこの消費社会への警鐘と
受け止めたのです
モノも音楽も祖末に扱うな、と









2009/11/11  11:49

投稿者:sumori

obinさん、こんにちは。
これが意味するところは、とどのつまり「作り手が真剣勝負で作った作品ゆえに心して聴け」ということですね。それは判ります。アーティストが音の一つ一つに魂を込めて作った作品を単なるBGMとして聴き流されては、アーティストもファンもいい気持ちはしないですよね。

しかし、ご紹介いただいた内容をみる限りにおいては、僕はどっちもどっちという感が拭えないのです。前述と矛盾するようですが、最終的には聴き方というものは聴き手の自由であって、それをとやかくいうものではないと感じてしまうのです。

とうよう氏の批判するライナーが、行き過ぎた堅苦しい音楽の聴き方に対して問題提起をしたものだとすれば、共感できるものはあります。ながら族的な聴き方が新しいとは思いませんが。

最近はもうないでしょうが、かつてジャズ喫茶でオヤジたちが難しい顔をして聴いていた風景を思い出します。そういう店はおしゃべり厳禁で、注文をしようと「すみませーん!」と言っただけで、怒られた記憶があります。ジャズはそんなに小難しい音楽だったのか、もっと心の赴くままに楽しめるダンス音楽ではなかったのか、と思わずにはいられませんでした。

かつてクラシック音楽に浸った時期もありましたが、演奏者、聴き手ともに形式ばりすぎてて肩が凝り、そういう雰囲気に嫌気がさして聴かなくなってしまいました。もっとリラックスして聴けるのであれば、クラシックのコンサートも楽しめるのになと、今でも思います。すごい!と思う瞬間があっても、曲の途中で声を挙げることも、拍手することも許されないのは、どうも自分の感覚とは相いれないのです。

とは言え、そういう聴き方が好きな人に対して反省しろなどという気は毛頭ないです。自分は自分の聴き方をすればいいと思うので。

僕自身は、脳みそより体全体で聴くような感覚で音楽に接しているつもりです。どうせ聴くのであれば、最大限楽しみたいと思いますので。

http://members.jcom.home.ne.jp/bluesy/

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