「おもちゃ屋さんになりたい。」こんな夢を持つ子供は大多数だと思います。
子供達にとって、おもちゃは夢そのものなのでしょう。今回の記事で結論を真っ先にお話しておきましょう。おもちゃの定義の中に、「それを使うのは子供の特権ではない。」
玩具は一般に子供の発育において知識の形成を助けるために存在する物、とされてきました。本物に到達するための予行演習というわけでしょうか。男の子は汽車や自動車 飛行機 船、女の子はお人形やおままごとと相場が決まっていました。
人生で遭遇する可能性のまさに事前知識の習得のための道具でした。従ってそれらは模型と言われる精巧なスールモデルよりも本物志向が貫かれていなければならないのです。プロポーションや質感、色といった表面的な体裁でなく、その本質を内包していなければいけないのです。
すると模型の存在は大変危ぶまれてきますが。
模型とは一般にスケールモデルを言うようです。そのプロポーションや質感、外観が問われるのです。一般におもちゃの延長が模型と考えられてきました。しかし私はその本質を異にしていると思います。
最も物の本質を内包している物、古代の埴輪もそのような意味で、おもちゃだったのではないでしょうか。
現代の各方面のおもちゃを見渡すとその大半はこの本来の条件を備えてはいるとは思いますが、それを開発した人、製作に携わった人、それを使う人の中にその事を意識していたのは何割だったのでしょう。今回私がこの記事で言いたかったのは正にこの事です。
模型ばっかりが本物を追求した物ではないのです。前にも書きましたようにむしろその本質は少し違うはずです。
その違いを今回は考察しません。
この記事を書こうと思ったきっかけは、ウエッブ上で私がしょっちゅう訪問している「八木軽便鉄道」内にあるブログに「私の鉄道模型観〜「鉄道模型」か「鉄道玩具」か…!?〜」と言う記事を読んだからです。その記事内にもコメントさせていただきましたが、自分の所に戻ってきてもう一度この問題を掘り下げてみようと思ったからです。
その記事ではそのブログを管理されているどてかぼちゃさんがご自分で作った5インチゲージーの庭園鉄道に付いて考え方を書かれていましたが、その中で「おもちゃ」と言う言葉を使われていました。私はその事に注目してしまいました。
そのブログのURLをここに御紹介します。
http://ylr.cocolog-nifty.com/ylr/

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