最上階の事務所の隣のボーイの更衣コの隅にスチール机をもらい、そこで描いた。
喫茶店のメニューやパチンコ屋の朝10時開店のポップには得意のイラストを描いて
やったので店のマネージャー達から可愛がってもらった。帰りの夕方、三信会館へ
当時テレビで人気の木枯らし紋次郎の似顔を入れたポップを届けると
「ご苦労さん、おっいいねえ^^たまには遊んでいきなよ?」と言われて
パチンコ玉を一箱もらって遊ばせてもらった。
西武新宿駅前にあった喫茶店西武の斉藤というマネージャーには特に可愛がってもらった。
「君みたいなのはシャレたものを着ないと・・」といって小田急のシャツ売場に
連れて行かれ「アスコットタイはどうだ・・」と品定めをしてくれた。
結局グリーンの柄シャツを買ってもらった^^事務所の仕事以外に店の部長から
バイトの仕事をもらうことがある。渋谷や赤羽にあるキャバレーのホステス募集の
看板描きだ。
ネオカラー(絵具)と筆と物差、紙を袋に入れて電車に乗って行き、店の片隅で描く。
「ホステス大募集!時給2.500円!ドレス、ユニフォーム貸与・キャバレー・ウラシマ」(嘘爆)
赤羽の店はホステスさんの更衣室だった、看板を描いているとほろ酔いのホステスさんが
着替えにやってきた、描いてる後ろで、ごそごそやっていると「お兄ちゃん、ちょっと
ジッパーあ・げ・て・・」と言う・・・描くのをやめて振り返ると背中を向けた真っ赤な
ドレスにV字型の素肌が見えた。
僕は恐る恐るジッパーを引き上げた・・・「あり・が・と^^」
童貞の僕はふるえた・・・新英ミから王城に移る切っ掛けになった池袋の「白夜」の
地下を流行りのゴーゴーホールに変えるというのでブラックライトに浮き出るよう
蛍光カラーでサイケデリックなイラストを描きに行った時だ、シュールな模様の中に
女の裸らしきものを描き入れ悦に入っていたら、マネージャーから
「君、まだ女を知らんね。」とパンチ喰らって、悶絶する僕だった・・・・(大爆笑)
狷雑な新宿、シンナーのフーテン、寺山修二、唐十郎、赤テント、永山修、四谷シモン、
ビレッジバンガード、ベトナム戦争の帰還兵が若い日本人娘を抱いてうつろな目でいた。
全学連全共闘学生デモ隊と機動隊、角材とジュラルミンの楯との衝突、
同じ若メ同士が石を投げたり棍棒を振るって血を流す。平和を叫ぶ、ベ平連^^
騒然とした都電通り・・・現在の韓国のようだった。
水道局があった西口に京王プラザホテルが建設着工しはじめ、その周囲の道路を
カミナリ族というか映画イージーライダーに影響されアップハンドルにして単ヤを飛ばす奴。
そういえば胸苦しい3帖の部屋を抜け出し火薬を一杯詰めたモデルガンを京王プラザの鉄骨に
向けてぶっぱなしたこともあった・・思い通りにならない孤独な若さ^^
いつの時代も無知な若者は時代の流行り事にインスパイアされ翻弄され大人の餌食になる・・
ただ餌食になるのかテメエを見つけるか、何事も早く気づいた奴が支配する。
あの頃ビートルズを観て思ったのは、ただ見る側にいるより与える側にいた方が
いいと思った。矢沢はベンチャーズのギターに触発されビートルズに憧れたという
しかし、現実の業界は女に食わしてもらう単なるコピーロックであり
ロック音楽に対する理解とマネージメントが確立していなかった時代でもあった。
仕事でも何でも人に何かを与える・・・与えるってモノや金のことだけじゃない、
笑顔でもいい相手の喜ぶ笑顔に達成感や幸福感が味わえる・・・
奪い合うんじゃない、与え合う、それが心ある人間の社会だと思う。
矢沢永吉の凄いのは、テレビや東京でふんどり返えらず全国に与え歩いた・・・
それが今の彼の儲けなのだと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく

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