東京在住の家内の母89才が一年前に病いに倒れた。昨年四月一年間のパリ研修留学に
行ったアドさんが帰国するまでは死ねないとも言いながら、その後、入退院をくり返し
自宅療養を続けてきたが、この四月再び大学病院へ入院となった。
研修留学に行っていた長女亜土さんも無事修業を終え帰国したので家内と三人で病院を
見舞った。近代的な病室には多くの高齢者が入院しており中には認知症と思われる無表
情な生気のない老人も見かける。やがて我が身もと同情を禁じ得ない・・・
義母のいる部屋は個室で電動のベッドの周囲に心拍数や血圧を表示する機器が備えてあ
り、それらの配線と点滴のビニール腺が幾重にも巻き付いた光景の中に義母のパジャマ
姿があった。鼻にもビニールの管が差し込まれ痛々しい姿に昨年末、池袋の病院で見舞
った大腸ガンで倒れた親友の姿を思い出した。見舞った5日後に還暦を前に逝ってしま
ったが・・・・。
既に待ち合わせたアドさんが居て彼女のかん高い声と耳が遠くなり声高の義母の会話が
部屋に響いていた。義母も意外に元気で心配したほどでもなかったが僕らの顔を見るな
り突然、自分の幼少期からの苦労話を始めた。先年亡くなった義父共々富山県出身の大
正生まれで戦前の貧しかった時代、そして大東亜戦争。義父もシベリア抑留の経験があ
り、余り多くを語らなかったが七年間の戦争の体験は国家への不信と軍隊での矛盾を説
いていた。敗戦後の物資欠乏の中での仕事探し、占領軍下での混乱した社会にあって情
をかけた男の裏切りや、やっと就職した会社の倒産、経理の才を買われ幾つかの会社を
渡り歩き、その都度、人間の綾(あや)に翻弄されながらも義母と力を合わせ、やがて
家を持てるようになったと述懐していた。そして戦後の中小企業の苦労はとても口では
言い表せないとも・・・。
義母の話もやはり苦労の連続で娘時代は紡績工場で親に食べたせたいと質素倹約、通勤
電車もなるべく乗らず親兄弟の為に貯蓄に励んだと言う。物資の乏しい時代だから材料
を仕入れ手作りの衣類を作って売ったりし家計を支えたという。機知と才に富んだ義母
らしい苦労話だった。やがて姉のm子さんも合流、しばらく義母の介護をする。
翌日、再度病院を見舞うと個室から6人部屋に替わっていた、やはり質素倹約なのだ。
姉と家内と三人で担当医師の病状を聞くことになった。小部屋に通され若い女医か
ら現状の容態の説明を受ける。ブック型のパソコンに表示されたレントゲン写真やMR
画像と義母の診察データを見せながら「そうですねえ・・あと一ヶ月か二ヶ月でしょう
・・・」という。クールな情のない声だった。我々には声も出なかったが気丈にも姉は
今後の処置について女医に希望を言って部屋を出た。高齢であり快復が望めない義母の
身体にせめて痛みや苦しみを与えない処置を希望したのだった。
義母の部屋に戻ると、彼女のことが一層切なくなった。限りある命を目の前にする虚脱
感と虚無感が交差し諦めともつかずベッドに横たわる義母の姿を見た、やがて帰宅時間
が迫り義母の居る病院を後にした。帰り際「美味しいものを食べなさい!心の栄養にな
るから・・」と義母が言ったが入ったのは駅前にあったファミレスのバーミヤンだった。
無事帰国のアドさんを祝ってワインの小ビンで乾杯したが何かどこかにトゲが刺さった
食事となった。
そんな見舞いの日から、ちょうど一ヶ月目の五月になったばかりの頃、姉から母の容体
が・・と家内に連絡があったらしく、いつもより早く仕事先から血相を変えて事務所に
飛び込んできた。パソコンで新宿行きのバスの時刻を確認し帰宅すると万が一に備え喪
服を手にし高速バスの乗り場に向かった。「様子が分かったら連絡するから・・」と緊
張した彼女を見送った。自宅に戻り悶々としながら連絡を待った、新宿に着く頃、彼女
からの携帯が鳴りすでに病院から自宅へ移送されたということだった。義母の死を腹に
くくった。
翌日、通夜と葬儀の日程の知らせがあり、きょうが通夜で明日、本葬だという。一瞬何
と慌ただしいとも思ったが、かねて事態に備え手回ししてあったのだろう。しかし、
きょうから四日間の日程で関西の伯父が例年「これが最後だ。」という帰省の計画があ
った。それに今回は伯父の形見分けとする彼の蔵書やモーニング等の衣類を積んで知人
のワゴン車で神戸からやってくるという。朝八時半には自宅を発ったと伯母さんから電
話もあった。午後一時半には当地へ着くという。事故もなく無事、予定通りに着くだろ
うか?通夜へも出席しなければならない心穏やかになれない。落ち着けと自分に言い聞
かせ新宿行きの段取りを考える。伯父の車が家に着き荷物を降ろす時間と駅までの所用
時間を考え身延腺の発車時刻を決め前もって切符を買いにゆく。
通夜用の服装に着替え、今か今かと伯父達を待つ。携帯が鳴り今、諏訪パーキングエリ
アで食事を取っていると伯父からであった。しばらくすると今度は運転手さんが道筋を
聞いてきた。おいおい迷子になっちゃ困るよと無事を祈る。
部屋にじっとしていられない、庭先で待つ。やがて腕時計が一時十五分、予定より早く
ワゴン車が現れた。神戸から六時間余りの道中、八十代後半の伯父、さどかし疲れただ
ろう一年ぶりの再会だった。早速ワゴン車の後ろのハッチを開け荷物を降ろすビニール
紐でくくられた大量の蔵書、そして衣類の入った箱等を手分けして家の中へ降ろした。
一息入れると庭で運転手と記念写真を撮った。運転手は六十才だという私と同輩であっ
た。良くあんな長距離を運転できると感心したら新潟出身で長距離は馴れているとのこ
とだったが、しばらくして「今来た道程を帰ればいいんですね・・」と伯父の礼を受け
て神戸へ向けて帰って行った。彼ヘの感謝と無事を願って見送った。
さてとと、気を取り直して伯父から降ろした荷物の説明を受けた後、私の通夜葬儀のス
ケジュールを話し帰省を楽しみにしていた伯父を残し東花輪駅へ向かった。決めた予定
の電車より前の電車に乗ることができたので新宿には五時に着き大江戸腺で一旦練馬に
行き西武池袋腺に乗り換え会場の江古田斎場に通夜定刻前に着くことができた。
外は小雨が降り出し重苦しい斎場の中に入るとすでに遺影が飾られ祭壇には顔に白布を
かけた義母が横たわっていた。家内や参列の縁者と挨拶もそこそこに祭壇に手を合わせ
義母の顔を見た。白布の下から現れた顔は一ヶ月前、見舞いで会った時の病いの顔とは
違う閉じた目頭も安らかで、うっすら施した口元の紅、櫛の通った白髪、皺のないふく
よかな肌、死んでいるとは思えない固く握られた両手の姿は、それはそれは神々しいも
のであった。やがて納棺の儀となり縁者の手で棺に納められたが生前、棺に入れて欲し
いと義父や見覚えのある家族との思い出の写真、夫婦で拝受した感謝状、大切にしてい
た着物、義父が愛用していたジャケットなどが花々と一緒に納められた。
穏やかで菩薩と化した義母の顔を見る度に「泣くな男だから」と言い聞かせても胸に突
き上げるものがあり、その場をはずして泣いてしまった。
彼女と出会い「娘とどういうつもりで付き合うの?」と厳しい口調で言われたのが義母
との始まりであれから四十年ちかく、孫が出来たと夫婦で遊びに来てくれたことなど
様々な光景が脳裏をかすめ、さして孝行もせずと悔いとどうすることもできない別れに
無性に泣けた。祭壇に棺に入って、あらためて祀られた義母と遺影に有難うございまし
たと手を合わせた。家族や縁者の義母との沈痛な別離の思いが香の匂いとともに斎場の
中を流れしめやかに通夜を終えた。
その夜、脳裏に焼き付いた義母の美しく安らかな顔を思い出していた。やり切れない切
ない人生だと思った・・・・
59年生きてきて、そうした場面も沢山接してきたが志し半ばで人生を終えた人はやはり
病いや事故で何か苦渋とか悔恨を感じさせる顔相をしている。さりとて長寿を全うした
人であっても崇高さとか気高さといったものを感じることは少なかった。それは身内と
違って儀礼的な気持ちだからだろうか。しかし身内の思いもあるが義母や義父からは例
えようのない気高い死を感じた。
我々戦後の当たり前の人生と違って貧しい戦前、戦争体験という非常な時代、敗戦後の
物資欠乏と混乱した時代を生き抜いてきたからだろう。我々のような先ず自分といった
個人主義でなく戦前の教育勅語にみられる親兄弟の為、国の為といった自己を抑制した
生き方をしてきたからこそ人生を全うしたという満足が神々しく見せてくれたのだと思
った。あらためて義父、義母の冥福を祈り人生後半、心して生きていきたいと思う・・・


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