昭和二十二年四月十五日、復員の為蘭軍(オランダ軍)検問も終り、
今は唯々一路祖国帰還の一念のみ。空腹と疲れ切った頭なので故郷
に着いてから過ぎし日々を書こうと思ったが忘却の恐れもあるし他
人にはつまらないことでも、私にとっては生涯忘れ難き数年なので、
蘭軍作業の余暇を見つけ書き始める。
大東亜戦争が始まったのは昭和十六年三月山梨師範を卒業し、四月
に南巨摩の富河国民学校へ着任(小学校から国民学校と名称が変わ
った)した年の十二月八日で、戦争が拡大するに伴い、師範卒も一
般国民と同様に十五年から兵役に服くするようになったので不日入
隊する覚悟でいた。
十六年七月の徴兵検査で第一乙種現役兵となり十七年一月十日満州
要員として東部第十三部隊(野戦砲兵連隊)入隊となったが痔瘻手
術が長引き入隊出来ず十七年七月再検査で第二乙種補充兵となった。
十六年には一乙現役合格だし痔も完治していたので合格間違いなし
と幹部候補生願書を持参したのに残念で家には申し訳に立ち寄り富
河へ帰った。
戦争や世界情勢など皆目分らない祖母は長男が恐い軍隊に行かなく
て済んだと思って口に出して喜んだ。母は「然し召集があると思う
から体を丈夫にしておかねば」と言うが一刻でも息子の軍隊行きが
伸びてホットしている姿だった。人情として無理もないと思う。
召集必至と覚悟して児童達と心身を鍛練していた。
着任して二回目の富河の春だが・・・・流石に南峡の春は早い、四
月八日、校庭の桜は絢を競うがごと如く乱舞していた。午後も大分
廻り児童は殆ど家路につき教員室には私と二三の同僚を除いて、そ
の日の残務に余念がなかった。私は常直(夜の留守番)の独り者、
午後の一刻を片づけの終らぬ火鉢を前にして、そよ吹く風に散りゆ
く桜花も忘れ戦況記事に眼を走らせていた。
戦争が始まって一年四ヶ月目の記念日なので役場で婦人会があり輿
石正久校長、吉川首席女教員が参加していた。午後も四時を廻り両
先生が帰ってくる頃なので教員達も教員室に集まって話に花が咲い
ている。大分眼も疲れた私はガラス窓越しに静心なく散りゆく花弁
の美しさに、うっとりして無我の境であった。
恍惚たる眼に足早に帰り来る吉川先生の洋服姿が写った。
やはり家庭を持つ人ともなれば散りゆく桜も心に写らずかくも急ぐ
かと再び眼を新聞に移した。「新津先生、召集ですよ。」と吉川先
生の声、私の胸は早鐘の如く騒いだ。戦争に行くのが恐い為ではな
い。若い時だ一度は戦場に挑みたいとさえ思っていたのに、召集を
予期して準備さえしていたのに何故に胸が鳴るのか不思議だ。
召集の声に返事もせず、胸の騒ぎとは反対に顔を静かに先生に向け
て立ち上がり「召集令状を」と言う。「お父さんから役場に電話で
十四日午前七時迄に東部第八部隊に入隊と言われました。」と吉川
先生。
校長は直ちに高一の担任を島津教頭に移して私をホッとさせた。
分掌事務、担任学級引き継ぎ、各方面への挨拶、送別会など寸秒の
暇もない。校長他先生達や村の有力者、父兄や学童の溢れるばかり
の温情にも増して叶屋滝一家の肉親も及ばぬ厚情は終生忘れ得ぬも
のとなった。この誠実純朴な人々の為なら戦死しても悔いなしと覚
悟した。
昭和十八年四月十二日朝、桜花降りしきる校庭に校長以下教職員児
童、青年学校生徒千数十名、村役場の村長以下職員、警防団長、男
女青年団長以下団員、父兄会長愛国婦人会長、国防婦人会長以下会
員、更に村有志など含め二百余名、総勢千三百余名が集まり壮行会
が行われた。
私は熱血の集まる日の丸を持ち校長、村長と先頭になり身延線井出
駅へ向かう。果たして二度と見ることが出来るかと振り返れば、教
え児童と戯れし事なども鮮やかに浮かぶ、校庭に翩翻(へんぽん)
たる日章旗、小さくも厳かな泰安殿、日ノ本の弥栄永久にと祈る。
福士河原を何回となく子供達と若人の出征を送りしに、我今その人
となる。井出駅に着き河原を振り返えり見れば、そよ吹く風に日の
丸を靡(なび)かせて人々延々と続き、富士川の渡し船は運ぶに忙
しく遥か富士川越しに西方を見れば天栗山の校舎幽かに見ゆ、さよ
ならと心に言う。
(了)

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