わかる気がする
そう書いた。
加藤智大の書き残した膨大なモノローグ
太宰、寺山を輩出した高校という思いがこちら側にあるからだろうか?
そこに文学性を感じてしまうのだ。
一人の部屋の闇の中で、ぼんやりと映し出される携帯の画面に打ち込むことでさらに孤立を深めてゆく無為の時間・・・
マスコミからサイト依存症と指摘され、親との確執を理由とすることへの甘えを糾弾される
だが
いつも、自殺者が発信するSOSを読み取れなかったのか?と糾弾する野次馬と同じようにそれらの指摘は意味を持たない。
犯行予告を知りえたモノに、それらを止めるすべがあったのだろうか?
今まで誰にも聞いてもらえなかっただろうと想像する彼の過去を、誰かが察知して、その膨大な心の闇を聞き、解き放つことができるのだろうか?
・・・
あえて
犯行は許されるものではない
さらに、亡くなった方のご冥福を
と、殊更書くことをしない
それは個人の心情を書き記すことへの免罪符ではないのだから
・・・
現場での写メの異常さだが、それは犯行現場に立ち会ってしまった異常な体験を浄化する無意識の行動、と捉えることは非常識か?
撮影はマスコミだけに許される行為なのではない。誰もがカメラの付いた携帯を所持し、まさにその時のために存在するとまで言うのは非常識なのか?
その異常な時空間に出会い、なすすべもなく呆然と立ちすくみ、日常であるところの写メを繰り返す・・・
それが今の日本人の行動なのではないのか・・・
友人が犯罪に巻き込まれ、凶刀に倒れ、血を流し、アスファルトに横たわる時、それに付き添う友人は思わず叫ぶだろう
こんな時に写真なんか撮ってんじゃね〜よ!
そこで我に帰るべきなのだ
こんな現場に立ち会って何をすべきかを気が付くべきなのだ
その場で身体が動かなくても、気が付くべきなのだ
とりもなおさずピースサインで写メする人間が多数いたと聞く
リアルにその場に居合わせないボクは想像し、こう思うしかないのだ
日本人は・・・こういう民族なのだと
うまくまとまりませんが・・・

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