現実での移民1000万人。
ネットでの荒らし問題。
どちらも受け入れるから問題になる。
だったら排除すればいいじゃん。
そういう考えの人は少ないのだろうか。
それが言論の自由だからといってコメントでも何でも受け入れてたら、ふざけた書き込みが残ることになる。それを嫌と言うほど見てきたし、自分自身も体験してきた。
だから今はコメントは表に出さない、トラックバックも相手によって表示するかどうか決めている。
決めかねるときは表示しない。
そんな風にしてブログをやっている。
ただ、保守派、あるいは民族派、もしくは右翼といわれるようなブログでもコメントを基本的に受け付けているところがあるのを見ると、正直な所驚く。
外国人の受け入れには慎重なのに、何でネットは例外なんだろうか、と。
人それぞれの考えがあるのだろうが、どうにも解せない。
外からやってくる人間は疑ってかかる。紳士的な態度を取り続ける者だけ歓迎する。それに反したら即座に出入り禁止にする。
なぜそうしないのだろう?
国の外国人に対する対応は、上記の通りの事を求めるくせに。
個人的な感想でしかないのかもしれないが、付き合う人間は選ぶべきである。
それはネットであっても同じだ。
なぜならば、ネットは現実から乖離した空間ではないからだ。
ネットは現実の一部である。
現実の中に存在する。
決して仮想的な空間ではない。
仮想空間とは、夢の中とかの事を指すのではないだろうか。ネットは夢の一部か? 違うだろう。ネットは現実の一部だ。
現実の一部なのだから、現実と同じように対処しなければなるまい。
俺は各自が運営するサイトというのは、その人の家のようなものだと思っている。個人の権利の範囲だ。一国一城と言ってもいいかもしれない。
あなたは自分の家におしかける愚連隊を歓迎するのか?
それが自由だから、彼らの権利だから、と認めるのか?
ではあんたの権利はどこにあるんだ。
余所様のサイトを見ているとそういう考えが浮かんでくる。
それでもいい、というならばそれはそれでいいだろう。
ただ、こういう輩が鬱陶しいのは、それをこちらにも押しつけてくることだ。
承認制やコメント・トラックバックの削除を否定する連中は、それを他人にも押しつける。
いやね、あんたがそれを正しいと思ってるならかまわないよ。
でも、それはあんたの正義であって、俺の正義ではない。正直鬱陶しい荒らしの相手してるほど暇じゃないんだ。あんたは違うんだろうけど。
いちいち相手してるより、削除した方が楽なんだよ。承認制にしておいた方が楽なんだよ。極端な話、コメントやトラックバックを受け付けない方が楽なんだよ。
おまけに最近の荒らしは、最初は友好的に接して来て、ある程度の時期が来たらとたんに掌返すようなのもいる。見極めるのも面倒くさい。
そういう奴らってさ、国内に潜伏してるスパイのようなもんじゃないか。
友好的な笑顔を浮かべておいて情報を集めて本国に送る。で本隊が侵攻してきたら、内部から城門を開けて防衛力を皆無にする。
そういうのと何が違うんだろうか?
こんな事を書くのは、せと弘幸氏のブログのコメント欄が創価学会関係者と思われる連中の書き込みで鬱陶しいことになってるからだ。
せと氏はそれでいいのかもしれない。
また、多くの読者もそれでいいのかもしれない。
だが、俺はこういうのに来てもらいたくはない。相手してる暇もない。
せと氏がコメント欄の解放を強要してきたわけでも何でもないが、こういう現実を見てると、つくづく思う。
「コメント欄の解放なんてやってはいけない」
と。
それが出来るのは、よほど無神経な人間か、相当に肝が据わった人間だろう。
どっちかというと無神経な方に入る俺だが、荒らしは願い下げだ。

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