賭人の独り言さんのエントリーに触発された。
『賭人の独り言』
「走り屋」か、「傾奇者(かぶきもの)」か
http://tafu.iza.ne.jp/blog/entry/869789/
いわゆるオタクの一人として、痛車というのにひかれるものがある。
最も俺は、こういったもの(痛車とか)への理解が割りと乏しい人間なのでどうにも理解できないものではあるが。
「それでもオタクか」と言われそうである。
オタクと一口に言っても様々な、だという事の証明である。
実際、オタクと言われる連中でも趣味・趣向の違いで対立があったりする。このあたりは左翼の内ゲバと同じようなもの、といったら語弊があるか。だが理解しやすいと思う。
さて、なんでこの記事に触発されたのかというと。
次の一文でようやく理解できたことがある、ということで。
>前エントリーで戦国時代の武士、前田慶次の詩をご紹介したが、前田慶次は当代一流の武士・文化人であると同時に、異風を好み常識を逸脱した行動をとる「傾奇者(かぶきもの)」であった。
当時、その「傾く(かぶく)」自由は、野垂れ死にする自由につながっていた。それと同様に「狂った走り」の裏にあるのは、無残な事故死。
「走り屋」という言葉には、その現実をくらまそうとするかの如き響きがある。あまり好きではないコトバのひとつである。<
確かにその通りだと思う。
TAFUさんが言いたいことは違うのかもしれないが、しょせんオタクというのは世間から認知されない存在である。
それでも好きでやってる、他人からどう評価されようとも構わない。
そう思ってなければやってられないものがある。
今は海外からの評価が高くなってるから見直されてるかもしれないが、それもしょせんは「サブカルチャー」という分類の中での話し。
決して「メインカルチャー」ではない。
クラシックに対するロックや、文学に対するライトノベルのようなものなのだろうか。
しかし、それでも好きでやってる、好きだから続けていると世の中が変わり始めてくる。
かつて浮世絵も国内では理解されなかったが、国外では高い評価を得た。
映画もかつては数分程度の子供だましのようなものであったが、今では芸術の一つとなっている。
いずれ漫画・アニメ・ゲームも同じ道をたどるのかもしれない。
とはいえ傾奇者である。
良いか悪いかは分からないが、評価が変わるわけではない。どんなに高く評価されても、「傾奇者としては」立派だという事になる。
決してそれ以上にはならない。
けど、それはそれでいいと思う。
どう評価されようとも、実際に客が呼べて金が集まるならば産業となる。
産業となればそれで食っていけるようになる。
食っていけるようになれば参入したいと思う者が増えていく。出資者だって出てくる。
それでいいのと思う。
そのうち、かつてバカにしてた連中がそんな事を棚に上げてすり寄ってくる。
その時にそういう連中をツマハジキにしてやればよい。
ただしその為には条件がある。
分野・形態・ジャンルはともかく、世の中の為になること・反社会的でないこと。
これが条件となる。
世のためにならない・反社会的というのは左翼に共通する。
こういう要素がある限り、誰も認めないだろう。
その対局、世の中に貢献する・社会を大事にする、というのが出来たとき、はじめて本当に受け入れられると考える。
アニメ・漫画・ゲームは本当に進歩した。
表現技術は本当に進歩した。
そこで表現しようとするもの、娯楽なら娯楽なりに人に何かを伝えようとするものも進歩したと思う。
勝手に進歩したわけではない、制作者が色々考えて試行錯誤して今がある。
そしてアニメ・漫画・ゲームは表現の手段の一つとなった。
願わくばこれらが反社会的なことではなく、人としての道を、人がもとめる自由というものを伝えるための手段になることを願ってやまない。
そんな与太話のような事を考えた。

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