総括として、
フィルモグラフィーから抹殺された35_版
『高校大パニック』がすべてのはじまりだ。
(
『斬り込み』『濡れた荒野を走れ』の澤田幸弘も、既に
体制側の人間でしかない。)
撮影所の中には、俺達の撮りたい映画はない。
石井聰亙・松井良彦ら狂映舎のメンバーはStudioからStreetに出て(書を捨てよ町へ出よう)自由な映画を撮りはじめる。長崎俊一
『映子、夜になれ』山本政志
『闇のカーニバル』矢崎仁司
『風たちの午後』緒方明
『東京白菜関K者』碓井明
『ブランキック公三』みんな思いは同じだった。
金はない。技術もない。でも情熱と、それをささえる
バカな仲間はたくさんいる。
熱い映画を撮るには、
犯罪スレスレの行為もあった。
当時はCGなんて便利なものはない、FILMに焼きついたものは全てむきだしでギリギリの
REALだ。
<STREET MOVIE KIDS>(成田泉・磯野好司編)人は彼らをそう呼んだ。
以前の自主映画(高林・大林・高嶺・大森あたりが最後か?)の土着民的、趣味的な流れより、むしろ若松プロや初期ATG作品に近かった。
だから、佐藤寿保
『激愛!ロリータ密猟』渡剛敏
『胸騒ぎの放課後』瀬々敬久
『課外授業暴行』佐野和宏
『変態テレフォンONANIE』らピンク映画勢も、園子温
『男の花道』平野勝之
『雷魚』ら遅れてきたやつらも、みな彼らの兄弟だ。
それはまさに文学でも私小説でもない
、まぎれもない映画だった。
一方、映画監督になれなかった社会人の私は、その憧憬から、友人にさそわれ<スタジオデルタ>に出入りするようになる。
山本監督の
『ロビンソンの庭』の
チンドン屋を筆頭に、維新派の高岡茂さん
『ベイビークリシュナ』、シネマルネサンスの松林さん小林さん(RCSの佐藤さんにもタダでよく見せてもらいました)「映画新聞」の景山さん(現ヌーヴォ支配人)カンコさんらを手伝って、チラシ配り、街貼(ポスター)等で<インディーズ映画>を側面からささえる。デルタの階上の新船さん(現大駱駝艦)とこ<立原啓裕や升毅がいた>で阪本順治の
『鉄拳』の応援や、宇口さんに頼まれて、スタジオアルバトロスで山崎哲・後藤和夫の
『ザ・ストリッパー堕ちて藍』なんてのも映したな。
その頃の1本がエスパー清田のFAKEドキュメント
『ΦIDEA』
(大島渚がスプーン曲を見て、お見事!)監督は林海象、同時上映が、
『夢みるように眠りたい』 。
16_だったので扇町の映写室<穴ぐら>から台詞を暗記するぐらいみた。(無声映画だけどテープから流れる声はトーキー。)監督も、主演の佐野史郎もこれがデビュー作。
でもこのあたりから、
<STREET MOVIE >とは違うんだよね。
結婚したあたりから(本業の)仕事も忙しくなり、だんだんと疎遠になる。
R・コーマンじゃないが、この手の仕事は
<若い奴の情熱の使い捨て>でいい。
でも時々眠れぬ夜にふと、あのころのことを思う。
私のいたのは、
<インディーズの極北>のそのまた極北だった。
でも、あの熱い時代に少しでも立ち会えたことを今も誇りに思っている。
ところで、当時
『ゴンドラ』って自閉症の孤独な少女が旅する素敵な映画も手伝ったんだけど、その伊藤智生監督が、
ドグマ(AV)の総帥
<TOHJIRO>(拘束椅子トランス)になってたのは驚いた!
オークションしたいひとは、こちらを見てね。
PS シネヌーヴォXのスタッフのみなさま、先日はどうもお世話になりました。
今度はぜひ土方鉄人監督の
『戦争の犬たち』で飯島洋一さんに会わせて下さい。

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