映画『
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の小説版『
機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー』
(徳間版の方)について、昨日からの続きですが、

『
ハイ・ストリーマー』の個人的な感想と言ってもいろいろあって長くなってしまうので、ここでは1点だけに限りたいと思います。
『
1st』が“成長する少年の物語”であるとすれば、『
逆シャア』、は“
破滅する青年の物語”であろう。
『
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(以下、『
逆シャア』)の主役は実は
アムロ・レイよりも
シャア・アズナブルなのではないか? とも思える。『逆シャア』においては主人公のアムロ・レイは人格が既に完成されて比較的に安定しているのに対し、シャアの方がより深く葛藤し自己矛盾を抱えているからだ。
偉大な、偉大すぎる父の遺志を受け継ぎ、限られた状況の中で父の理想を実現させるための、連邦政府の宇宙移民への冷遇をやめさせるための、人類全体を強制的に宇宙移民にさせてより早期に人類全体をニュータイプに進化させるための、人類全体に新しい変革をもたらすための、そのための
隕石落し作戦・地球潰し作戦である。
偉大な父の理想を実現させるためとは言え、いまだかつて誰もしたことのないような“地球潰し”と言う大罪を、全ての人の悪業を、一人で背負おうとする青年の物語である。
しかし『ハイ・ストリーマー』を読んで見ると、シャア自身も地球潰しの作戦が本当に正しいのかどうか迷っているフシが窺える。
シャアの敵は地球連邦の無責任な官僚達やそれらを無思慮に支持する(シャア流に言う所の)“今すぐにでも英知を授けられねばならぬべき愚民ども”なのであって、地球の生態系そのものではない筈である。
人類の政体を変えるため、人類の変革を促すため、ただそれだけのためだけに地球そのものを潰してしまって本当に良いのか? シャア自身にも迷いが無くはなかったのだと言うことが窺える。
だからこそその天意を図るために、
サイコフレームの技術を故意に流した(或いは渡した)のではないか? と言うことに今回『ハイ・ストリーマー』を読んで見て個人的には気がつきました。
もしも自分の隕石落しの作戦を阻止できる者がいるのなら、それは唯一アムロでなくてはシャアとしては納得がいかなかったのではないだろうか。
「情けないモビルスーツに載ったお前に勝って何の意味がある」とはシャアとしては決して人を馬鹿にした意味などではなく、“天意が図れないから意味がない”と言う意味なのではないのでしょうか。
シャアはアムロをもってして自らの作戦が天意に適ったものであるかどうかを図りたかったのだと思います。
アムロと互角の条件で戦った上で、尚且つ地球潰しの作戦が成功するのなら、地球潰しの作戦がたとえ大罪であったとしても天意に適った行為である、とシャアの中で納得ができるのであろう。
その上で天意を得た
ネオジオンの総帥として人類の変革を導いて行くつもりだったのではないでしょうか。
それは「私はあこぎなことをやっている。近くにいるならこの私を感じて見ろ」と言う辺りにも表れているのだと思います。それはまたシャアなりのアムロへの友情でもあったのではないでしょうか?
以上はあくまでもごく個人的な感想に過ぎませんが。
映画版『
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』においてはシャアの器があまりにも矮小化されて描かれていた印象があり、それでは1stの頃のシャアとはキャラの同一性が欠けているように感じられて個人的には不自然に思えましたが、この『ハイ・ストリーマー』を読むことでその辺りの矛盾を個人的には解消させることが出来ました。


そしてその隕石落しの作戦は、地球潰しの作戦は、作中では地上に住む連邦政府の官僚以外の人々や動植物をラストで何カットにもわたって描くことによって、作品の作り手側から明確に否定されているのだと思います。


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