〈古典部〉シリーズ6冊目『
いまさら翼といわれても』については先日ここで触れた通りであります。
そこに収録されている6本の短編の4本目「
わたしたちの伝説の一冊」については未だ言い足りない思いが残りましたので、今回少し補足したいと思います。
作中の
神高漫研の時代背景は原作版では2000年,
平成12年(アニメ版の『
氷菓』で換算しても2012年,
平成24年)の5月頃のものだと思います。また、おいら自身が高校や大学の学漫にいたのはもうン十年も前のコトなので、
以下の内容は半ば昔話だと思って読み流していただければ幸いであります。
ただ、学漫の文化と言うものは基本的には今でもあまり変わりはないかと推察します。・・・今日の学漫の現状がまるで違ってたら、ゴメンね。^^;
高校漫研や大学漫研等のいわゆる“
学漫”において、商業誌上の既存のマンガ作品に対しての
書評や
マンガ評論をその会誌に載せても良いのか否か?については、
各個の学漫の伝統や諸事情によってその回答は様々に異なるかとは充分に予想できますが、個人的な見解としては「大いに有り」だと思います。
学漫の会誌にはオリジナルのマンガやイラストの他にも、既存のプロの商業作品の模倣やパロディや書評等が混在していても、母校の看板に泥を塗らない範囲でなら、「大いに有り」だと思います。
寧ろ学漫の会誌においては様々な形態の原稿が載っている方が、個々の会員・部員の個性が誌面上でも際立つので面白いかと思います。
当該学漫の財政の成り立つ範囲内で、なお且つ母校には迷惑のかからない範囲内で、誌面上では大いに挑戦してアグレッシブに攻めて行くべきかと考えます。斜め上を行き過ぎてしまっても、少しくらいならOKかと思います。(^^)
誌面上では楽しんで挑戦するのが学漫での会誌作りの一つのコツかと個人的には思います。
イラストやマンガが描けなくても、書評を書いたりコスプレしたり物語が作れたり,或いはその意志の多少なりともある人なら、(各個の学漫の伝統や諸事情にはよりますが)一般的にはそういう会員・部員の多く居るケースの学漫があっても良いし、また実際にも割と多いかと思います。
ただし、いわゆる『イラスト部』の場合はこの限りではないのかも。イラストの描けない,或いは描く意志も無い者には、イラスト部は相応しくない場所なのかも。また逆に、なまじストーリーマンガが描ける部員は返って邪険にされるのかも。それに、本当にイラストの上手い人はイラスト部ではなく美術部に入るような気も、…したりして?
少ししか描けないから画力を上げるために入る人や、マンガの描ける同好の仲間を学内に求めて学漫に入る人ももちろん多いと思います。
そんな新入生や後輩たちに何も教えない,或いは教える能力のまるで無い学漫と言うのは、それはそれで
寂しい学漫だと思います。最低でもフツーは地元の画材屋とか文具屋とかの情報交換くらいは出来る筈だと思います。
作中の神高漫研のように「
読むだけ派」と「
描いてみたい派」が部内で激しく対立して、少しでも描けそうな部員がいると描けない人達が目の仇にして吊るし上げて追放しようとすることは、外の世界の人達には信じ難いことかも知れませんが、学漫の世界では実は往々にしてよくあるコトでもあります。
作中の神高漫研の描写には個人的には物凄くリアリティーを感じてしまいました。(T_T)
野球部に喩えて言うと、野球の出来ない,練習も全くする気の無い「観るだけ派」の部員たちが「プレーしたい派」の練習をする野球部員たちを目の仇にして追放しようとするような有り得ない話です。しかし学漫ではその「有り得ない話」が油断をしていると往々にしてありがちです。
作中では野球部の喩え話が出ていたので、ここでも野球部に喩えて見ました。
描ける人を締め出す学漫、描ける人に見限られる学漫、描ける人たちが敢えて避けようとする学漫…というのは往々にしてありがちですが、それは
物凄く寂しい学漫だと思います。
作中の神高漫研の場合は、今は未だ文集で書評を書いておりますが、絵の描ける部員を一人残らず追放したら、今度はその流れで次にはマンガの書評を書ける部員すらをも追放するようになるのではないか?とも思えてしまいます。
今に、何もしないことを是とする不毛な掃き溜めのような名ばかりの部に陥る恐れすらもあるのではないでしょうか?
部内の綱紀を刷新し、部の建て直しを図る強烈な個性を持つ有志が現れない限りは、この神高漫研のようなケースでは…、多分もうダメなんだと思います。
「『神高漫研を背負って立つ』
浅沼さんの意気や良し」とは思いますが、如何せん浅沼さんでは画力以前に胆力に欠けるかと感じます。人騙しの
羽仁さんや屁理屈屋の
篠原さんを相手に部内での主導権争いに競り勝つことは、難しいでしょう。
これらの不穏な内情は複数のルートで
総務委員会の耳にも届いているようです。
里志の口振りでは神高漫研の修復し難い内紛については、部を二つに分割する解決案が総務委員たちの間では有力なようであります。
たとえ漫研が独力での解決ができなくても、学校側に直接介入させない為にも生徒会や総務委員会等の段階で、生徒側の自治権の範囲内で解決すべき案件だと考えます。学校側に下手に直接介入されて、この社会から一つの学漫が消されたり、生徒側の自治権が侵害されたりすることには反対だからです。
作中の神高漫研の場合は、いずれは総務委員会が介入して部を二つに分割することになるのだろうと一読者的には予想しますが、しかし漫研を二つに分けた所で絵もマンガも描けない方の漫研に未来があるのでしょうか?
書評しか書けない,出来ない漫研と、書評の他にも何でも描ける漫研がもしも同じ校舎に並存したら、その優勝劣敗は遠からず誰の目にも明らかになると思います。「自作マンガを描く人は書評を書かない」などとは限らないからです。
作中でも伊原自身が古典部の文集『氷菓』の最新号で『地球へ…』の書評を載せております。
また、場合によっては描けない人たちよりも優れた書評を書けることだって有り得るからです。
この神高漫研のようなケースでは、本来なら部を二つに分ける必要など全く無い筈であります。いわゆる「誰得?」ってヤツだと思います。
マンガを取り巻く環境は、世間からの偏見は、今の時代であってもまだまだ厳しいものが根強く残っているかと思います。
マンガ好きの者同士が学漫の狭い内輪の世界で描ける者と描けない者とに分かれて憎しみ合っている余裕など、本来なら全く無い筈です。
悪意や敵意すらをも含む外からの世間の厳しい視線をもっと意識すべきです。真に闘争すべき対象は、学漫の内ではなく外にいる筈です。
学漫が権力争いや政治闘争をしたいのなら、その覇気を学漫の外側に向けるか,或いは原稿用紙なり衣装作りなりにぶつけるべきかと思います。
世間の偏見や無理解に対しては、マンガ好きなら描ける描けないの別なく大同団結するべきかと個人的には考えます。
学漫の中の世界では緩やかな連携で良いとは思いますが、外からの敵意に対しては、世間の偏見に対しては、
学漫は鉄の団結を誇示すべきだと個人的には思います。
芸事であるからには各々のレベルで上達を目指すべきと思います。部活やサークルであるからには何らかの活動をすべきと思います。学漫は部外や学外の世界にも広く目を見開くべきと思います。
河内先輩については、本日はもう長くなってしまったのでまた後日に
初めに戻りますが、学漫の会誌に既存のマンガ作品の書評を載せても良いのか否か?については、
各個の学漫の伝統や諸事情によってその回答は様々に異なるかとは充分に予想できますが、
個人的には自作マンガも書評もパロディも模倣も模写も、或いは売り子のコスプレも、「大いに有り」だと思います。
描ける人と描けない人とに分かれて学漫が狭い内輪の世界の中で内部対立するなどとは…、本当に愚かなことだと思います。
何か暑苦しいコト書いてスミマセン。半ば昔話だと思って読み流していただければ幸いであります。(^^ゞ
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