だんだんとみなさまもお聞きのとおり、〈たんのう〉は真の誠であります。
真の誠あれば〈たんのう〉ができる。どんなことがありましょうとも、われはこれだけ前生よりの〈いんねん〉あるのや、また、私はこれだけの徳の者やと得心してお通り下されたならば、〈たんのう〉は前生〈いんねん〉の〈さんげ〉という。次第にだんだんと理が治まる。それを、〈いんねん〉を知らずに通るから、何遍も何遍も通り返しの道を通らねばならなくなるのであります。
〈みかぐらうた〉に、
八ツ やまひのねをきらふ
とおっしゃるは、ここのことでありまして、心を開いて不足の心を持たんようにせよ、すれば根が切れるとおっしゃる。〈いんねん〉の道なら、どうでもこうでも通らにゃならん、通さにゃならんという。よく聞き分けて心の〈たんのう〉して通るのが、すなわち誠というのであります。
この心をもって日々お通り下されば、ほかやない、お言葉にも、
「一筋の糸を伝うてくるならば、末では神が待ち受けている」
と仰せられたように、誠一つという心をもって、誠というは正直な心、その誠一つという堅い心でこのお道を信心するならば、末では神様が待ち受けてござるとおっしゃるのであります。
その誠の心は、この世を通りゆくには、弱そうにも思われるが、これがまた強いのであります。糸一筋は頼りないものやが、この心をもってよく通るなら、神様はその心を受け取って下さり、何ごとも自由自在というご守護を下さるのであります。
まず、この家は調子よく治まるというは、心の誠一つが自由自在という。その誠の心をもって通るから、内々は身上息災に、仲よく結構に暮らさしていただけるのであります。
そのご守護を受けるというのは、心の誠が台というのであります。
しまするで、お道という道は、お話を聞かしていただいただけではなんにもなりませぬ。聞かしていただいた理をしっかりと胸のうちに治めて、ご教理どおりの心となりて、行いを実地に現すから、ご守護下さるということになるのであります。
口と心と行いと、この三つが合わなければ、神様の自由自在というご守護は下さりませぬ。[ヽを〈〉にさせていただきました。](「本部員教話抄」〔上田民蔵先生〕道友社刊より)

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