そして、2004年の3月に修養科に入らせていただき、『おさづけの理』を拝戴させていただきました。
それから、同じ年の10月にも、もう一度、修養科に入らせていただきました。
それからも、なかなかたいへんなこともありましたが、現在は、自己破産の裁判中なのですが、道一条を通らせていただく心定めをさせていただき、0からの再出発をさせていただいている道中なのであります。
誠にありがたいことに年金をいただかせていただいて生活をさせていただいていますが、目も耳も鼻も口も手も自由(じゅうよう)をいただき、内臓器官もありがたくご守護をいただき、またその上に手だけで自動車さえも運転させていただいくこともできます。
世間的には、ずいぶん苦しい状況ではありますが、ほんとうにありがたいご守護を毎日いただいていますので、心から感謝させていただいています。
最後に、僕の悟り方を少し書かせていただきたいと思います。
お道の御教えをしっかりと勉強、研究させていただくまでは、お金を貸した人、だました(詐欺)人、商品を貸して代金をもらえなかった人、また、麻酔の注射を打ったお医者さんなどが悪い、その人達のせいで、こんなに苦しめられているのだとばかり思い、憎んだり、恨んだりしていましたが、結局は「我が身うらみ」であったのだ!!すべて、自分自身が前生前々生で、そうなる種(原因)を蒔いてしまっていたために、今生において、その芽が出て花が咲いてしまっていたのだ!!ということを悟らせていただくことができたということなのであります。
また、【おふでさき】に、『だん/\とをんかかさなりそのゆえハ きゆばとみえるみちがあるから』(だん/\と恩が重なりその上は、牛馬とみえる道があるから)というお言葉がありますが、まさにそのような状態になってしまっていました。(これには、解釈が二通りあり、生きたまま牛馬のような生活をしなければいけなくなってしまうという解釈と、出直しをして牛馬の道即ち畜生道に落ちてしまうという解釈とがあるようです。)
つまり、僕の身上や事情の苦しみは、他の誰のせいでもなく、すべては自分自身の前生前々生のほこりが積もり重なり、そして天の神様への恩が重なり、徳が尽きてしまった姿だと悟らせていただいているわけなのです。
これは、人様を倒して来た(人様を立ち行かぬほど、だまし困らせ苦しませてきた)という理により、生活も成り立たなくなり、家も立たなくなり(子供が授からないために家が絶えてゆく姿)、その上に身上が立たない(足が立たない、また寝たきりの姿になってしまう)ということになってしまったというわけなのです。
それゆえに、僕は、なんとしても、何生かかったとしても、このご恩報じをさせていただきたいと心を定めさせていただいています。
そして、しっかりしっかり『たんのう』の心を治めさせていただき、出来るかぎり神様のご用をつとめさせていただけるように頑張らさせていただきたいと、堅く堅く、心に誓わせていただいているというわけなのであります。
何日間かにわたり、長文を読んでいただき、誠にどうもありがとうございました!!m(__)m

0