僕は、小さい頃から足が不自由で様々な神様や仏様におすがりしてきましたが、四年くらい前(2006年11月時点より)にもうない命(人生に絶望して、いつ死のうかという毎日でした)を天理教の神様に救けていただきました。その御礼をこめて、毎日のひのきしんとしてこのブログを書かせていただいています。自分自身の体験談や、お道の御教え(三原典)をもとにした日々の心づかいなどを練り合いさせていただきましょう!!(^o^)
2016/11/27 23:11
『さあ/\尋ねる事情、身上に不足なるは、どういうものと思う処は、よう聞き分けにゃならん。一名々々に皆違うでな。この理を諭し置こう。めん/\にも人に諭して居るやろう。聞いて居るやろう。めん/\も身上に不足なる処は、悟らにゃならん。内々の処よう思やんせよ。蒔いたる種は一度は皆生えるものである。前生いんねんこの理を聞き分けにゃならん。前生の理を見て、身上あって楽しみ。身上無うては楽しみ無いである。十分の処は、これからと思う処は、楽しみと思うてするなら、この理を追々聞き分けて通らにゃならん。一列は世上見てたんのう/\の心という。この理を諭し置こう。』(M23)

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