Deutsche Grammophon 2532 005 LP 1981
これは機会を見て、此方の見識が定まった時に紹介をしようと思っていたレコードなので、ようやくと言う事態となった。だがこの角書きも大袈裟か?巨匠でチャイコフスキーとは珍しいと発売当時はよく言われたものだ。しかしながら独境系の指揮者にはチャイコフスキーの縁も多々あるものだ。特に後期三大交響曲は白眉であり、名盤もあるのだが、巨匠に対し、「珍しい」なんて感情が芽生えるのも、ひとつの固定観念と言うべきだろう。現に巨匠十八番の内では、真っ先に浮かぶのが、モーツァルトであり、次には、R・シュトラウスで、それからベルクでようやくベートーヴェンである。だから巨匠がチャイコフスキー何ぞ振っていては「イメージに合わない。」としてしまうのだ。だが所詮は聴き手の勝手なのだ。能書きはこれで終わりにするが、曲は紹介の通り、チャイコフスキーの交響曲第5番ホ短調op.64である。楽団はロンドン交響楽団で、巨匠初のデジタル録音と発売当時には話題となったものだ。収録は、1980年5月5〜6日にロンドン、セント・ジョンズ・スミス・スクエアで行なわれた。そこで小生が発売当時に聴いた感想から先に述べるが、暗く重い音色で、重厚だがロシアがまるでドイツに飲み込まれた演奏だと最初は感じた。だかその後、チェリビダッケの更に遅いテンポの色彩の少ない演奏を聴いて、ギュンター・ワントの正しくドイツの頑固爺さんの権化みたいな演奏を聴いた後ではその印象も変わろうと言うものだ。特にこの録音は、最初期のデジタル録音と言う事もあり、少々エッジの立った音質なので細部まで良く解るのがありがたい。それで改めて聴き直してみると、確かに重い演奏なのは認めるが、それは調性が、ホ短調なのも更に助長している面も否定は出来ないだろう。つまり重いのは、何も巨匠の音楽性だけが責任ではなく、曲自体が重苦しいのだ。だからこれがもしもウィーン・フィルやベルリン・フィルだったら本当に梃子でも前に進まない頑固な演奏となった事位は予想がつく。それが現時点での印象だ。ロンドン交響楽団の特性は、散々「スター・ウォーズ」等の映画音楽でも聴いたので御馴染みの音色だが、シルキーでダイナミックな金管とメロウで何処かしらフランスのオケみたいな木管に整然としながらでも絹のように纏わり付く弦楽器のセクションも見事で、どうして英国の楽団が過小評価をされているのかが理解が出来ない。だからこれもロンドン交響楽団を語る時には重要なレコードとしても良い位である。さて能書きは此処までとして、演奏の感想を述べよう。
第1楽章の序奏はアンダンテである。その冒頭のクラリネット吹く暗い主題は「運命の主題」とされているものだが、何処でもベートーヴェンが付き纏うのも5番の交響曲の御約束なのかも知れない。だが巨匠のテンポは別に遅い訳でもなくて、寧ろ普通なのだが、晩年の巨匠にある「遅い、重い」も所詮は固定概念によるものだと言うのが聴き直してみると解る。それでつくづくレコード芸術とは「事大主義」なのだなと思う。だから主部のアレグロ・コン・アニマとて、正にそのもので、この演奏の何処が重苦しいのかと不思議な位だ。だからこの手の評も如何に客観的でなくてはならないと思ってしまう。それで飯を食っている音楽批評家達は反省をしてほしい。それで哀愁感のある推移主題までの経緯も曲想に沿っているのでテンポも細かく動く。処々の木管が愛らしい。再現部の第1主題と第2主題の交差も性格を分けて表現をしているのも巨匠らしい。つまり分析的な面もあり、そこに新即物主義の音楽家たる特色を示していると思う。デューナミクが細かいのも巨匠らしい。その他に気になった点としては展開部の手前で、そっとテンポを落す傾向にあるので、より展開部の設計が解りやすい。実はそれは他のどの曲でもしている事で、例えばベートーヴェンの第6交響曲の第1楽章でも同様の解釈をしているので楽曲の構成が良く理解出来る。第2楽章は、ホルンのソロが美しい。まるで「スター・ウォーズ」の「レイア姫のテーマ」をも彷彿とさせるが、同じ楽団なれば、それも当然か?この楽章は元々テンポが遅い。そりゃあ楽章冒頭が、アンダンテ・カンタービレなのだから当たり前だ。そこで遅めだと頑張っている人はスコアを読もう。此処では「カラヤンか?」と思う程にムード一杯の演奏を聴かせるのが面白い。だがやはり硬派だ。それからモデラートからアンダンテと譜面を読んでいてもテンポは動く楽章だ。それとオーボエ奏者も誰だか解らないが、何かを覗き込むような表情も印象的で、コーダに入る前の金管のトゥッティでの「運命動機」が弦よりも金管がものを言う巨匠の特性が明確に現れている。第3楽章は、スコアでもワルツとしており、正しく演奏もワルツだが、此処は英国の楽団らしい品の良さを聴かせる。テンポもアレグロ・モデラートだ。中間部の細かい弦楽器による主題を聴いていると「チャイコフスキーだわ」と当たり前の事を感心するのだが、それは巨匠の演奏がスコアに忠実だからだ。この箇所はさらりと聴かせる。此処でも木管奏者の優秀性が光る。さて終楽章だが、冒頭の厚い響きに欧州を感じてしまうのは気のせいか?主部までは素直に曲の経緯に沿った物語さえ感じる。それで金管のゆとりのある響きにロシアを感じるのだが、やはり此処まで聴いていても「何処がドイツ風?」なのと思う。強いて言えば巨匠風のチャイコフスキーだ。それにしても音楽が淀みなく進む。テンポもアレグロの箇所では「これぞ」と思う程に元気だが、上手い具合に楽団側の自主性にも託す面もあるのでバランスも良い。後は集大成のような演奏だが、スケールも大きく、コーダも焦らないので余計に曲の規模が解る。よく巨匠のレコード評に終楽章が盛り上がらないだのと言うものがあるが、終楽章のテンポの扱いが落着いているのは巨匠の演奏では元々の特徴で、晩年だからとかの批評は全く宛てにならない。

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