Polydor Japan 45MG0484/6 (独.DG.2740 268)
今更楽曲の解説も要らないとは思うが、巨匠がモーツァルトの後期3大交響曲をどんな視線で見ていたかと考察をする際には、是非聴いておいた方が良いと思うレコード(演奏)ではある。録音年代、及び会場は共に40番も41番も 1976年4月28〜30日にオーストリア、ウイーンのムジークフェラインザール(大ホール)であり、収録された。此処で聴ける演奏のテンポ感は極めて遅く、小生も初めて聴いた時は(言葉は悪いが)まるで棺桶に片足を突っ込んだような印象があったのだが、改めて聴き直してみると、また新しい発見もあるものだと思い、再編集である。最初に記事にしたのは、このblogを始めた初期だったが、敢えてそれは参考にせずに聴いてみよう。始めは、40番からだ。このレコードでは、第1稿Aとされている所謂、オーボエ稿で、クラリネットなしのものだ。針を下すと実に折り目正しい演奏で、聴く方も襟を正すような感じになるが、巨匠の古い方の、この楽曲のレコード(コンセルトヘボウの方)を聴き直してみても、元々テンポが速い訳でもない。つまりそれは晩年の遅い演奏がイメージとして残っていただけだと気づく。固定概念なんて、所詮はそんなものだ。だが只折り目正しいだけではない。音のドラマが目の前で展開していく様は聴いていると思わずうっとりしてしまう程だ。テンポが遅めなので、あの有名な旋律が、絡みつくような趣があるが、ウィーンフィル特有の高弦の響きは美しく、それだけでも充分な気持ちになる。何と充実した第1楽章である。第2楽章は、アンダンテだが、正しくアンダンテである。巨匠の演奏は、当たり前の事に関心をするような処がある。時に心に突き刺さる情感は、巨匠とウィーンフィル特有のものだが、それとて別に特別な事をしている訳でもない。単にスコアにある旋律を音化しているだけである。それにしても美しい。天上の音楽とでも言ったら言い過ぎだろうか?第3楽章は、複合三部形式なので少々複雑だが、構成が混んだ楽章は巨匠の独断場でもある。極めて律儀で厳しい禁欲的な演奏だが、その生真面目さこそが「巨匠のモーツァルトなのかな?」なんて思ったりする。メヌエットを聴いていると、この頃のウィーンフィルは、現在聴けるそれとは全く違う事に気づくが、ウィンナホルンの何とも言えない牧歌的な音色には心惹かれるものがあり、生真面目な姿勢の演奏なれば、尚引き立つ。フィナーレは、それまでのテンポがゆっくり目なので、疾走するアレグロの趣があるが、印象としては僅かに手綱を緩めただけだ。処々に顔を出す木管の響きが素朴で愛らしい。終始部の押さえ方も堂に入っている。さてそれで少し休憩して聴いたのが、41番だ。「ジュピター」と言うと最近は、G・ホルストの「惑星」を思い浮かべる人も居るだろうが、此処でのジュピターは惑星ではなく、ローマ神話の最高神ユーピテルに因んだものである。そんな事は解り切った事だが敢えて記載しておく。第1楽章冒頭は、正に剛と軟の対比なのだが、これはベルリンフィルとの全集の演奏よりは効果が出ている。(つまりそこまでキツイ印象がない)この楽曲では、巨匠特有の質実剛健な印象が、そのまま反映されているが、そんな曲なので当然そうなる。テンポも実は楽想に沿って、かなり細かく動いているのだが、表情が自然なので、あまり気にならない。此処ぞと言う処にあるべきものが収まるので聴いていても気分が良い。曲が進む毎に響きも熱くなるが、その頃の巨匠は、まだ元気だった証だろう。第2楽章もすんなりと始まり、表情も明るく快適だ。些か能天気な印象も受けるが、混濁のない明確な造型は、全体に安定感を齎し、旋律の持つ音の意味合いも理解が出来る。テンポは流れが良いので早目に聴こえる。第3楽章は、しなやかなウィーンフィルの第1ヴァイオリンの音から先の期待が持てる演奏だが、まるで象がダンスでもしているような重さがある。テンポも遅めなので尚更だが、あまりにも巨大過ぎて、人によっては抵抗があるかも知れない。此方もどちらかと言えば律儀な印象が残る。終楽章は、第1楽章と同じ事が言えるが、剛と軟の対比が面白い。テンポも落ち着いたもので、処々で顔を出す木管の素朴さに心を奪われる。巨匠ならではの構成的解釈だが、であるからこそ聴き手の感銘も深くなる。久々に良いものを聴いた。

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