現在の音楽家事情には、すっかりと疎くなったが、たまに聴くと素晴らしい音楽家も結構居て、「もう少し聴いてみたいな?」とは思うのだが、そんな時に現在のCDショップ事情では気軽に寄って、そのお目当ての音楽家のCDを探す事が出来ない位に専門店が無くなり、昔のレコード店のようなジャンル分けが出来た売り場でゆっくりと、レコードなりを探す事が出来なくなった。随分と寂しくなったものだが、そんな感じなので、たまに聴いた今時の音楽家も興味が持続せずに、そのうちに何のCDを買おうとしたかも忘れてしまう。ジャスラックもあんな感じなので、益々音楽産業は小さいものになっていくだろう。それではジャスラックが何の為にあるのかも怪しくなるが、実際に音楽産業の衰退を招いているとしか思えない事しかしていないのだから、あんな各省庁の天下り機関みたいなものは潰すべきだろう。そして各ジャンルの音楽家達の為の組織や機関なりを立ち上げた方が良いと思う。本来なれば音楽家の権利を守らなければならない筈のジャスラックが逆に音楽家の権利を侵害しているのだから変な話なのだ。現にジャスラックが徴収した音楽著作権料は、その権利者たる音楽家には譲渡されない。だから"それはおかしい"と疑問を呈している音楽家はネットでも問題提起をしている。その楽曲の作曲者が演奏をする際に、本当にその当人に使用料を請求した話があるのだから、相当おかしな事になっている。此処で長々とそんな不満を漏らしてもどうしようもないのでやめるとするが、敢えて話の枕に置いてみた。
嘗ては「カラヤン、ベーム」なんてファン同士の論争もあった訳だが、そんな話が通じるのは結構な御歳の音楽ファンだろう。その頃のクラシック音楽の愛好家は正にそれだった。アナログレコードの時代はそうだったのだ。だがクラシック音楽だけではなく、歌謡界も元気で、それこそ各芸能事務所で多くのアイドルを世に出していたのだから、売り出す方も受ける方も消費が凄かった。だがそれだけサイクルも良好だった訳で、実際に市場も回転していた。だからクラシック音楽のレコードでは、各レコードレーベルに契約のある指揮者がベートーヴェンの「第九」を録音したなんてニュースも大いに話題になった。それでなくともベートーヴェンの交響曲は(クラシック音楽)レコード業界の金字塔だったので競って録音した。そのピークが、NHK交響楽団客演でも御馴染みのオトマール・スウィトナー氏が自ら音楽監督を務めるベルリン国立歌劇場の管弦楽団で録音したベートーヴェンの一連の交響曲だ。そのレコードは発売の度に話題となり、後から全集にまとめられた。その「第九」も大した評判だった。尚、1980年代になってもまだベートーヴェンの交響曲では、フルトヴェングラー博士の演奏が基盤になっていたが、巨匠たるカール・ベーム博士も生前は、ベートーヴェンの交響曲でもヘルベルト・フォン・カラヤン氏のレコードが専門誌では批評家達の論争で決まって取り上げられた。そこで博士のファンは、カラヤン氏の1970年代の全集にある「第九」と比較をされて悔しい思いをしたものだ。レーベルは同じグラモフォン。楽団はベルリンフィルとウィーンフィルだ。小生その頃はカラヤン氏のレコードも持っていたが、レコードとして何度も聴いていると、最初は演奏効果が派手なカラヤン氏の演奏に惹かれるのだが、繰り返して聴いているとしまいにはうるさく感じてしまう。しかしベーム博士の場合は楽曲の構成だけは、何を聴いてもしっかりしていたので、聴いているうちに楽曲の構成までも理解してしまう。そんな処があった。だから博士のレコードの方が後々繰り返して聴く事になる。なんと言おうか品が良いのだ。それはどんな楽曲も同じだった。カラヤン氏の指揮するベルリンフィルはレガートだらけで柔らかい演奏の筈なのにベーム博士指揮するウィーンフィル特有の(素朴だが、品性の高い)美音の方が心地良く、流麗な楽団の美音を崩さずにスコアの読みの深い演奏をしていた。内容が詰まった響きは禁欲的で無駄がなかった。博士に感覚の近い指揮者では旧ソ連のエフゲニ・ムラヴィンスキー氏が浮かぶが、凛とした音楽に対する姿勢はとても似ていた。
此処からレコードの紹介だ。博士とバイロイト音楽祭の関係は1962年から始まる。しかしヴィーラント・ワーグナー氏との関わりはベルリン・ドイツ歌劇場が戦後再建後の1961年に開場された時の記念公演からだ。博士は当時70歳。ヴェルディの歌劇「アイーダ」の新演出を振った時だった。(ハンス・ヴァイゲルの著書「私は正確に思い出す」より)それが後の戦後の上演史上最高と絶賛された「指環」の上演に繋がるのだから「縁は異なもの」である。だからワーグナー家との信頼も厚く、バイロイト音楽祭開催100周年の記念行事に於いては、ヴォルフガング・ワーグナー氏の挨拶の後にマイスタージンガーの序曲を振っている。1976年の事だった。なのでこの1963年に同音楽祭開幕初日の際に振ったベートーヴェンの第9交響曲も大いに意義がある。そこで思い浮かぶのが、同年にベルリン・ドイツ歌劇場と共に来日した際に行われた日生劇場のこけら落とし公演での同曲の演奏だ。当然、とてもよく似た演奏だが、やはりどうしても比較したくなるのは仕方なかろう。そこで敢えてORFEO D'ORでCD化されたものではなく、伊、MELODRAMのLP盤(販売、1983年)で聴いた感想を述べよう。これが意外と音が良い。(不満と言えば、第4楽章で音が擦れる個所がある。)それと最初に御断りをしておくが、とても長文になりそうなので覚悟の程を。
MELODRAM Itary MEL650 1983 2LP
それでは針を下してみよう。すると一聴して会場の広さが解る程の低音の情報量に魅了されるが、聴く環境によっては(その環境も)それぞれだろう。話は戻るが、第1楽章は、 Allegro ma non troppo, un poco maestoso 調性は、ニ短調で 4分の2拍子である。(尚、このレコードには音楽祭開幕前のファンファーレも収録されており、会場の熱気が伝わる。博士登場の拍手も収録をされているので尚更だ。) 冒頭の、弦楽器のトレモロとホルンの持続音は明確。テンポは遅いがダイナミックだ。まるで岩山が目の前に聳え立つのを見る趣きがあるが、緊張感も凄く、この時代が博士の全盛期なのが解る。序奏部の後の独特な展開手法による第1主題の強奏もズシンと響くが、その重さは現在の管弦楽団では聴けない質感だ。当時のバイロイト音楽祭の祝祭管弦楽団のメンバーは、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の楽団員が、結構在籍していたらしいが、聴くと確かに硬質で色が少ない音色。だが木管は素朴だ。(それがホッとする。)弦と木管の応答部分も音が活きている。しかしながら音楽は決して停滞はしない。推進力が素晴らしいからだ。スケールがとても大きく感じられるが、無駄に拡がり過ぎない。求心力が強いので内容が「ギュッ!」と締まった響きがする。然も演奏に関する迷いは微塵も感じられないのだ。この楽章の特色は再現部が展開部のクライマックスを兼ねる構造だが、なればこそ雪崩のように精神の嵐が吹き荒れる。正に炸裂だ。それだけ演奏の構成も揺るぎないのだ。怒涛の如く築くクライマックスは、博士ではないと出来ない独壇場だ。そして終始部も力強く踏みしめる。続く第2楽章は、Molto vivace ニ短調 4分の3拍子 - Presto ニ長調 2分の2拍子 - Molto vivace - Presto である。短い御馴染みの序奏は、ニ短調の主和音の降下に特色があるが、直後の弦楽器によるユニゾンとティンパニで思わず背筋が伸びる。F音のオクターブに高低2音のティンパニのリズムも弾むが、その強弱のバランスも良く、決め処が強烈に連打されるので、聴く側の心も高鳴る演奏だ。第1楽章でも感じた事だが、ホルンが素晴らしい。しかしそんな事を思っていると急に演奏の流れが中断される。「もう少し頑張れば(面変わりせずに)全部、カッティング出来たのに?」とも思うが、案外、音質を考慮したのかも知れない。再現部はオクターブの主動機をティンパニが連打しながら導くが、その迫力は実演ならではだろう。この楽章の決め方も明快だが、第1楽章の終始部より、更に力が籠っている。さて第3楽章、Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ニ長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ロ長調 4分の4拍子 - Andante moderato ト長調 4分の3拍子 - Tempo I 変ホ長調 4分の4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 8分の12拍子 だが、一種のロンド形式みたいな楽章なので、構成力に疎い指揮者が振ると何とも退屈な演奏になる。神秘的な安らぎに満ちた緩徐楽章だ。優美な旋律が続くので歌い過ぎるとどうしてもテンポが遅くなる楽章だ。その遅い方の代表が、1951年に同音楽祭開幕に振った天国的な表現をしたフルトヴェングラー博士だが、あのテンポで緊張感を持続するのは至難の業だ。ベーム博士の場合は基本テンポがサラサラと早目なのでダレないが、スコアリーディングをしながら聴いていてもスコア通りにテンポが動く。だから単調にならないのだが、気持ちに呑まれないでキリッと節度を極めているので、響きも重くならずに聴きやすい。しかし音楽は徐々に膨れ上がって行き、その先行きを期待させる。4番ホルンの独奏も素晴らしい。(誰が吹いているのだろう?)それと例の警告も堂々としており、常に節度があるので所謂「天国的な」(陶酔した)演奏とは違う博士ならではの魅力がある。アダージョであっても男性的で、第1楽章で印象深かった岩山のような質感は、この楽章でも変わりない。勿論終始部も音が立っている。それでは注目の第4楽章だ。
その形式は、Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子、Allegro ma non troppo ニ短調 4分の2拍子、Vivace ニ短調 4分の3拍子、Adagio cantabile 変ロ長調 4分の4拍子、Allegro assai ニ長調 4分の4拍子、Presto / Recitativo ニ短調 4分の3拍子、Allegro assai ニ長調 4分の4拍子、Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 8分の6拍子、Andante maestoso ト長調 2分の3拍子、Adagio ma non troppo, ma divoto 変ロ長調 2分の3拍子、Allegro energico, sempre ben marcato ニ長調 4分の6拍子、Allegro ma non tanto ニ長調 2分の2拍子、Prestissimo ニ長調 2分の2拍子である。形式が複雑になればなる程に本領を発揮するのが博士だが、(例えばR・シュトラウスの楽曲)この楽章も、その意味ではなかなかまとめ辛く、アンサンブルばかりに取られると個性が発揮出来ず。かと言って個性を出そうとすれば空中分解でも起こしそうな難易度の高い楽章だ。特に場合によっては独唱者で台無しにもなるので、あまり自由にも歌わせられない。合唱とのバランスが合わなくなるからだ。そんな楽章だが聴いてみよう。冒頭から重量級で、とても安定しておりスケールも大きい。低弦のレチタティーヴォが重いのだ。だから第2楽章の主題が木管で出される個所は、その対比が面白い。徐々に変奏される歓喜の主題が勇猛果敢に鳴り響きながら独唱者を受け入れるのだが、あの「O Freunde」でのバリトンのジョージ・ロンドンの歌唱は、やり過ぎな位に丁寧だ。だが処々で腰が折れるのは残念だ。ソプラノのグンドゥラ・ヤノヴィッツは見事だ。メゾソプラノのグレース・バンブリーは此処でも強力な声だ。そこでテノールのジェス・トーマスだが、どうした事かすっかり3人の歌唱に呑まれてしまっている。それで最初の合唱のクライマックス、即ち「神の前に」のモルト・テヌートだが、フルトヴェングラー博士程にフェルマータは伸ばさず適度な長さだ。合唱団が此処にきて、ようやく調子が出てきた感じがする。その後のマーチだが、最初の商用録音となったドレスデン国立歌劇場との録音から聴かれる独特のテンポ処理がある。此処でテンポが落ちるのだ。それからテノールの独唱だが、最初の合唱の部分での印象の薄さとは違い、ジェス・トーマスは自らを主張しているようだ。その後のトロンボーンの旋律をなぞりながら「抱擁」の詩が合唱される個所だが、とても荘厳な感じがする。この辺に来ると最初はなんか眠そうな印象だった合唱団が元気になっている。音程も安定しているがピシリと決まるのは、やはりウィルヘルム・ピッツの指導による成果か?「歓喜の歌」の旋律による「歓喜」と「抱擁」の2つの歌詞が二重フーガで展開される個所の見事さは重量級のこの手の演奏ではないと聴けない醍醐味だ。演奏は続く。独唱4人で、「歓喜」の歌詞をフーガ風に歌うが、その絡み合いが「嗚呼、バイロイト音楽祭での「第九」なんだな?」と感心してしまう声の競演だ。合唱団も負けじと歌うが、まるで熱に浮かされた感じになるのは実演ならではだろう。Prestissimoも快適だが、博士の場合はPresto辺りの感覚で留めており、終始部もキッチリと決める。これは1963年7月23日、バイロイト祝祭劇場で収録されたものだ。演奏中、指揮に夢中になると指揮台を踏み込む音が聞こえるが、臨場感が余計に感じられ、そこが博士の実演盤を聴く醍醐味でもある。

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