書肆「永楽屋」の創業は安永4年(1775)である。代々「東四郎」を名乗り、「永東」と呼ばれ7代続いた。書肆を廃業したのは昭和26年(1951)のことである。初代東四郎は、藩校明倫堂の教授と近しくし、藩校で使う漢書の出版を一手に引き受けていた。出版に際し、木版彫り・印刷・製本といった手仕事を、当時少禄で生活に困窮していた尾張藩士の内職に出していた。藩士の内職は本来許されてはいないが、「永楽屋」の仕事だけは藩の仕事と同等であるとみなされ公認された。
「永楽屋」の出版物の中で異彩を放っているのは、葛飾北斎の画本『北斎漫画』・『富岳百景』、それに加えて本居宣長の『古事記伝』全44巻である。
本居宣長は、名古屋と縁が深く、田中道麿という門人がいて名古屋の国学の発展に寄与している。田中道麿は、享保9年(1724)美濃の生まれ。彦根の大菅中養父という賀茂真淵の門人と知り合い日本古典を学んだ。その後、宝暦9年(1759)頃に名古屋に移り住み、安永の始め頃から「桜天神」で和歌や国学の塾を開き、門人は三百人に及んだという。古典の中でも専ら『万葉集』などを研究している。安永6年(1777)松阪に本居宣長を訪ねる。同9年(1780)にも再訪し、この時宣長の門人となる。天明4年(1784)に没した。
その道麿に師事し、道麿が没したあと、天明4年(1784)に宣長に入門したのが、横井千秋である。横井千秋は、元文3年(1738)尾張藩重臣(千石)横井氏の三男として、名古屋城内三の丸中小路に生まれた。兄が早逝したために、家督を継ぎ、藩の御用人に至った。
尾張藩の漢学偏重に対して、国学をもって藩政改革を進めようと、天明7年(1787)『白真弓』という提言書を藩に提出し、国学館を建てて、本居宣長を藩に迎えるよう献策するが、儒学派の猛反対に遭い挫折する。そのこともあり、寛政4年(1792)職を辞した。
しかし、宣長の『古事記伝』刊行にあたっては、横井千秋の尽力に負うところが大きく、千秋の奔走がなければ『古事記伝』は世に出ていなかったと言っても良い。また、最初の2帙の経費は、横井千秋が出資をしている。
寛政2年(1970)に第一帙の巻一より巻五、寛政4年(1792)に第二帙の巻六より巻十一が刊行されている。宣長が享和元年(1801)没した後にも、刊行が続けられ、文政5年(1822)に残りの巻十八より巻四十四が全て板行され、実に出版だけでも三十二年をかけて完成された。『古事記伝』はその後も需要があったものと見え、天保15年(1844)、また明治8年(1875)に後印本が出ている。(この稿つづく)

本居宣長『古事記伝』


左 宣長44歳の像(本居宣長記念館蔵)
右 宣長61歳の自画自賛像(本居宣長記念館蔵)

横井千秋宛書状(本居宣長記念館蔵)

2