本居宣長には、植松有信という名古屋の門人がいた。植松有信は、宝暦8年(1758)生まれ。田中道麿の門に入り国学を学んだ。17歳の時に父が浪人となり、天明5年(1785)に没し、兄の波吉も出家していたため、京都遊学中に習得した板木彫刻で生計を支えた。これがきっかけとなり本居宣長の『古事記伝』の版彫に携わることになる。横井千秋の命を受け、松阪の宣長の元にも足繁く通っている。
寛政元年(1789)本居宣長の名古屋訪問を契機に入門し、宣長の指導を受け国学・和歌に対する知識を深め、次第に名古屋地方における宣長門下の中心人物となった。
寛政4年(1792)3月、宣長が名古屋に来たとき、有信の広小路柳薬師の西隣の家に寄宿した。宣長は、門下のために講義し、質疑に応じ、歌文を添削し、20日ほど逗留した。宣長はこの時の有信の心からなるもてなしに感謝し、
花ならぬ人のなさけの色深みはるよりをしき春の別路
という歌を贈った。
また、『古今集遠鏡』『新古今集美濃の家づと』『新古今集美濃の家づと折添』『玉勝間』『玉くしげ』『玉の小櫛』『うひ山ぶみ』『鈴屋集』等、多くの宣長の著作の板刻を手懸けた。享和元年(1801)に宣長が病没すると、その子春庭に入門し、『山室日記』『今ひとしほ』『長閑日記』などを残した。横井千秋・鈴木朖など交友関係は広く、社会的信望も厚かった。没年 文化10年(1813)。

植松有信像(本居宣長記念館蔵)

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