東区ゆかりの人物に、赤穂四十七士のひとり片岡源五右衛門(げんごえもん)がいる。
片岡源五右衛門高房は、寛文7年(1667)尾張藩士熊井重次郎の次男として、現在の赤塚交差点の北西(東区芳野1丁目)に生まれた。その出生地には、かって名古屋市教育委員会の立てた案内標識があったが、今は失われている。
源五右衛門は生母が側室であったため、寛文10年(1670)に正室の子である熊井藤兵衛次常が生まれると嫡男たる地位を奪われたため、次男となった。延宝2年(1674)8歳の時、叔父(父熊井重次郎の弟長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいた)の赤穂藩士片岡六右衛門の養子となった。延宝3年(1675)養父六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続し、浅野内匠頭長矩の側近くに仕えた。
浅野内匠頭とは同年の生まれであったこともあり、異例の抜擢をされた。さらに源五右衛門は美男子でもあり、浅野内匠頭とは衆道の関係にあったようだ。そのためか、片岡家の家禄はしばしば加増を受け、貞享3年(1686)には100石の加増、さらに元禄4年(1691)にも100石の加増があった。この二度の加増はいずれも「片岡新六」名義になっており、この時までの通称は「新六」であったことが分かる。元禄12年(1699)にはさらに50石加増され、都合350石を知行した。源五右衛門は、47士の中でも1500石の大石内蔵助に次いで家禄の高い人物となったのである。
元禄14年(1701)3月14日、主君浅野内匠頭が、江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。結果、内匠頭は、陸奥国一関藩主田村右京大夫屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まった。内匠頭切腹の副検死役である多門伝八郎(幕府目付)が記した『多門筆記』によると、源五右衛門は、最期に一目浅野内匠頭と会うことを許されたとされている。
また田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、内匠頭は源五右衛門と礒貝十郎左衛門に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている。しかし、文章がしり切れて、これだけというのは不自然である。恐らく、この後に続く文章は、幕府を憚って田村家で消された可能性が高い。
その後、源五右衛門は、十郎左衛門や田中貞四郎ら内匠頭の側用人たちと一緒に内匠頭の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良上野介への仇討ちを誓った。吉良への仇討ちの同志を募るため、赤穂へ赴いたが、このとき赤穂藩では殉死切腹が藩士達の主流意見であったため、仇討ちの同志は集まらなかった。赤穂で同志を募ることを諦めた源五右衛門らは、大石内蔵助の義盟にも加わらず、赤穂開城後、江戸に戻っていった。
しかし源五右衛門らは、江戸急進派ともうまくいかなかった。内匠頭の寵愛を受け、ただひたすら主君を思ってかたき討ちがしたい源五右衛門と自分の腕を天下に示すためかたき討ちがしたい武芸者の堀部安兵衛・高田郡兵衛・奥田孫太夫らでは同じ急進派でもまったく話がかみ合わなかったのだろう。
結局、礒貝十郎左衛門や田中貞四郎ら内匠頭側近たちと一緒に独自のグループをつくって、吉良上野介の首を狙った。しかし少人数で、ろくに剣も扱えなかった小姓たちだけでは何ともならなかった。元禄15年(1702)3月、江戸急進派鎮撫のために江戸に下ってきた吉田忠左衛門から説得を受けたのを機に、源五右衛門たちは、ようやく大石の義盟に加わる決意をした。
その後、「吉岡勝兵衛」と称して、南八丁堀湊町に借家をし、閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)たちに連座しないように義絶状を送っている。
元禄15年(1702)12月15日未明の吉良屋敷討ち入りにおいては、源五右衛門は表門隊に属し、屋内において十文字槍で戦った。2時間あまりの激闘の末に、吉良上野介を討ち取って本懐を果たした。赤穂浪士一党は、高輪泉岳寺へ引き上げ、吉良上野介の首級を内匠頭の墓前に供えて仇討ちを報告した。
討ち入り後に、源五右衛門は大石内蔵助らとともに、熊本藩主細川越中守の中屋敷に預けられた。元禄16年(1703)2月4日、幕命により切腹をする。介錯人は細川家家臣の二宮新右衛門であった。源五右衛門は、享年37歳。主君浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られた。戒名は「刃勘要剣信士」。
名古屋の実父・熊井家の菩提寺乾徳寺にも墓が建てられ、源五右衛門が細川邸切腹の際に用いた短刀と遺髪が埋められらた。
また、京都市上京区の妙蓮寺は、片岡源五右衛門の菩提寺であったが、浪士中ただ一人切腹しなかった寺坂吉右衛門から、46人の遺髪を託された源五右衛門の妻が、妙蓮寺に預け、墓地の一角に埋納された。浪士46人の「遺髪墓」は、討ち入り2年後の元禄17年(1704)に建立された。46人の戒名が彫られていたが、歳月の経過で表面がはがれ落ち、墓全体も傷みが進んだため、先年、その子孫により新しい「遺髪墓」が建てられている。

平和公園乾徳寺墓地 片岡源五右衛門の墓。

片岡源五右衛門の墓。墓碑銘「刃勘要剣信士」。

切腹した「元禄十六年二月四日」の日付が刻銘されている。

左 片岡源五右衛門画像(名古屋新栄 乾徳寺蔵)
右 片岡源五右衛門像(赤穂大石神社蔵)

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