東山植物園の中ほどにある「也有園」の西側に「旧兼松家の武家屋敷門」が移築されている。元は建中寺の南の水筒先(すいとうさき)町(現在は筒井町に町名変更)にあったものである。名古屋市教育委員会の建てた案内表示には
「この門は、もと東区水筒先町にあった旧尾張藩士兼松家の長屋門である。木造平屋建、桟瓦葺、寄棟造。中央に板扉を設け、脇にくぐり戸が付き、左右に部屋があり、出格子窓と武者窓が設けてある。建築年代は江戸末期と思われ、江戸時代の旧藩士屋敷門としては、比較的格式の高い部類に属する。ちなみに兼松家の先祖又四郎正吉は、信長・秀吉・家康に仕え、家康麾下七騎のひとりとして知られている。」
とある。
主税町の長屋門とよく似た造りであり、形式的には同じだろうか?(知っている人がいましたら教えて下さい)
兼松氏は、尾張国葉栗郡島村を拠点とする古くからの土豪であった。兼松又四郎正吉は、天文11年(1542)に生まれ、千熊、修理亮と名乗った。織田信長のもとで馬廻り、豊臣秀吉のもとで黄母衣衆をつとめ、秀吉没後は徳川家康に仕えた。
慶長5年(1600)、上杉征伐に参加し、岐阜城攻め、関ヶ原の役に従軍。関ヶ原戦後、清洲城主となった松平忠吉付きとして2,600石を知行した。忠吉没後、引き続き、初代尾張藩主徳川義直に仕え、寛永4年(1627)86歳で没した。
水筒先に屋敷地を拝領したのは、1700年代の初め頃のようだが、幕末の屋敷地図にも記載されているように代々尾張藩に仕え、明治維新を迎えている。
織田信長の馬廻のときに足半(あしなか)を与えられた逸話が有名である。
天正元年(1573)の織田軍が朝倉軍を追撃した越前刀禰坂での戦いの際に、朝倉軍の勇士として有名であった中村新兵衛を討つという大手柄を挙げた。又四郎が信長の前に出たときに、素足のままで足が血で真っ赤になっていたので、信長がいつも予備の履物として腰に着けていた足半を賜ったという話しである。(足半とはかかとの部分がない草鞋のことである。)
なお、一宮市島村には、現在も子孫が住み「兼松屋敷」と呼ばれているようだ。

幕末期の尾張藩絵図。建中寺の南に「兼松又兵エ」とある。

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