平和公園陸軍墓地の北に聞安寺の墓地がある。そこにひときわ大きな碑が建っている。寺島さんが、「鍋屋町風信」ですでに紹介されている「横井文庫記」の碑である。

聞安寺墓地の「横井文庫」の碑。

聞安寺の墓地。右奥に碑がある。
名古屋好生館病院の創立者横井信之については、「鍋屋町風信」でも「橦木倶楽部通信」でも記事になっていますのでお読みください。
*「鍋屋町風信」
○好生館について
http://silver.ap.teacup.com/applet/nabeya-cho/msgcate4/archive
○碑について
http://silver.ap.teacup.com/nabeya-cho/72.html
*「橦木倶楽部通信」
○名古屋好生館
http://white.ap.teacup.com/syumoku/20.html
名古屋好生館病院について記事を載せたあと、寺島さんの奥さんが横井信之のご子孫であることがわかり驚きました。さらに横井家一族は皆さんお医者さんになられていたり、お医者さんに嫁がれているということも教えて頂いた。ちなみに寺島さんのお父上は、名古屋好生館病院の薬剤師をされていたそうです。(*寺島さんご自身はお医者さんです)
さて、「横井文庫記」の碑について調べてみたので、まとめてみよう。
名古屋好生館病院を創設した横井信之は、明治24年(1891)45才の若さで亡くなった。その後、病院の運営は、長女幸の女婿佐藤勤也と次女静子の女婿北川乙治郎受け継がれた。

横井信之の家系図(『明治・名古屋の顔』より)
ここでは院長となった北川乙治郎について詳述したい。
北川乙治郎は、元治元年(1864)滋賀県伊香郡高月町に生まれた。東京帝国大学医学部に入学し特待生となった俊英である。しかし、明治20年(1887)東大を中退して、当時軍医監であった石黒忠悳に懇請して、その外遊に従い、自費でドイツのベルリンに留学した。ドイツで学位を取得し帰朝後、石黒軍医監の斡旋で明治23年(1890)和歌山県立病院長となった。また、この頃、石黒軍医監の仲介で横井信之の次女静子と結婚している。
翌明治24年(1891)横井信之の急逝により、和歌山県立病院長を辞して名古屋好生館病院の院長となった。当時、乙治郎は若冠26才であった。この時、長女の女婿佐藤勤也は副院長となっている。(乙治郎は院長でなければ赴任しないと強引であったようだ) 乙治郎の病院運営は積極的であり、明治28年(1895)には、「好生館医事研究会」を創設して、月々に研究例会を開き、後には『好生館医事研究会雑誌』を発行して研究論文を発表する場とした。そのために病院の隣地に「横井文庫」を建設し、さらに明治30年(1897)には、文庫内に「病理研究所」を設けている。同時に看護婦教育も始め、当時としては公立病院でもなし得なかったことを、次から次へと実施していった。
研究意欲も旺盛で、明治34年(1901)東京で開催された第3回日本外科学会において、本邦初の脊椎麻酔について報告を行っている。翌年には、論文を提出して医学博士の称号を得るとともに、外科手術についての新しい方法を学会に発表して注目をあびた。
乙治郎は、明治40年(1907)から大正10年(1921)まで名古屋医師会会長の職にあり、明治42年(1909)から数年間、愛知県医師会議長も務めた。名古屋の医師会・医事研究会の重鎮として君臨した。大正11年(1922)東区南外堀町の自宅で亡くなる。墓は八事霊園にある。
*参考資料
○『明治の名古屋人』名古屋市教育委員会編 昭和44年刊
○『写真図説明治・名古屋の顔』服部鉦太郎著 六法出版社 昭和48年刊

「横井文庫記」とある。寺島さんによると山県有朋の筆だという。

明治三十一年に建立。

北川乙治郎

好生館病院正門。左は横井文庫の塀。

好生館病院の南隣に建てられた横井文庫

明治43年頃の広告

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