葛飾北斎から永楽屋に宛てた書状を名古屋市博物館が所蔵している。なかなか面白いので紹介しておこう。日付は文化十四年(1816)十月十六日付。宛先は永楽屋番頭藤助宛。西掛所での「大達磨画」の興行が十月五日であるから、それから十日余り後のことである。内容は「大達磨画」の興行主である永楽屋に「二両二分」の借金をした際の借用証文である。役所の役人を気取り、北斎自らを「へくさゐ」という第三者に置き換えて、挿絵を添えて当時の流行の草双紙風に演出した借用証文である。
以下全文を載せよう。(出典 名古屋市博物館資料叢書3 猿猴庵の本シリーズ『北斎大画即書細図・女謡曲採要集』)

葛飾北斎書状全文

コレハ永東(永楽屋東四郎)氏より之御使御苦労御苦労、しかし
手前屋敷より申込シ之金子でハござらぬ。
此方役所なれバ、役人共ヲ以而申入升(もって申しいれます)。
コレハせん日、大洲(大須)西かけ所ニてカノ
大だるまをかいた、アヽ何サソレソレ
へくさゐとか申た画師か
此のせつ甚差つかえへると
承ったが、そやつが今日
御無心申度といヽ居ったて。
此文面では定而(さだめて)きゃつ
痛入って借用致かねるであろう、と申て
かりぬときゃつも一向つまらず、ハテどふか仕方がありそうナものだ。
イヤイヤしばらく御待被成(なされ)、今へくさゐを呼ニやって
受取ヲさせて御使へ進上致そう。コレコレ小遣イ、チョット
へくさゐを呼でコイヨ。


ハイハイ
ヘクサで
△り升(ござります)
尻クサイ
段々有難こさり升(有難うござります)。金子弐両弐分、慥ニ(たしかに)
拝授仕ました。乍恐(おそれながら)、御役所より右之段
永楽屋へ御達被下されせう(くだされましょう)なら、ありがたふ存ます。
則、受取書者(ハ)、左之通りニ仕、差上升(さしあげます)。
覚
一 金弐両弐分
右之通り、慥ニ時借仕候。為念(念のため)、如此ニ御座候。
則、自筆受取、左ニ御覧可被下(くださるべく)候、以上。
十月十六日巳ノ中刻
北斎戴斗拝
永楽屋御店
藤助様
借用証書がそのまま残っているので、北斎は、この借金を返済していないのだろう。恐らく、「大達磨画」興行と「北斎漫画」の刊行の印税的な意味合いがあったのかもしれない。いずれにしても、北斎が名古屋に残した足跡には興味深いものがある。永楽屋東四郎という書肆も面白そうなので、もう少し調べてみようと思う。

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