ここにいること

2022/1/19 | 投稿者: Maysico


「ここにいること」というタイトルのブログをもう数回書いた。
自分にとってターニングポイントとなる時に必ず浮かぶキーワードでもある。

少なくとも次の3月までは、と覚悟をしていた通り、オミクロン株というヤツが猛威を振るい、辛抱の日々はまだまだ続くことになった。
どれほどの人々が天を仰ぎ、いや仰ぐ間もなく日々生き延びることに必死だろう。
お上からの救済措置も多少いただいてきたし、いろいろな方々にも助けてもらい、私は今日も生きている。
頑張っているほど些細なことで心が折れてしまい、それが致命傷になって立ち直れないことだってあるだろう。
感謝しかない。

自分の仕事のひとつである音楽教室という、ある場所に来てもらってこそ成立することは、このコロナ禍で大打撃であることは言うまでもない。
仕方がない。いかんともしがたい。
しかしこんな状況が3年目というのに、教室を完全に閉めたことは実は一度もない。
来てくださる方がゼロにならなかったからだ。
来てくださる方がいたからだ。

世の中はこのコロナ禍をきっかけに大きく変化しようとしている。
場所を構え、人員を配置し、商品やサービスを提供するとか、
ひとつの場所で皆で集まって仕事をするとか。
そういたことをやらずとも、世の中が成立していくことが証明されてもきた。
一方でどんなに給付金や補助金をもらっても、失ったものを取り戻すことは並大抵のことではない。
その時を凌げる糧にはできても、失ったものは嵐が去ればハイハイと戻ってくるわけではない。

自粛生活が長引けば、どこへ行くのも億劫にもなる。
第一出かけなくても買い物もできるし、家でやれることもたくさんある。
そんな生活を3年近くやっていれば、ものごとに対するモチベーションを失ってしまうことも仕方ないことだろう。
何かを勉強したり、習ったり。
どうしても必要か?絶対に必要か?と言えば、健やかに生きていくことが最優先であるはず。
自分がその立場であっても同じ。だから十二分に理解できる。

この先、ある場所に来てもらってこそ成立する形式は、以前のようには戻らないかもしれない。戻らないだろう。
そうすると、やっていけない。
では、それをオンラインにすれば全て解決するのか?
私はそうは思わない。
それは代替手段、非常手段としての方法であり、大事なことは非日常の環境に身を置くことの価値だと気づいたこともある。

そもそもサックスという爆音楽器を、家で存分に練習できる暮らしをしている人などほとんどいないはず。
練習するには移動しなければならない。
カラオケ、スタジオなどを借りてとか、野外とか。
そう、日常生活の場から離れることが必要なのだ。
世の中の音楽家に怒られてしまうが、仕事を持ちながらの音楽の練習には限界もある。
練習は絶対に必要だが、修行僧のようにそれが継続できるならば、ノーベル賞ものだ!
ならば、わずかの練習時間しかなくてもいいから、継続すること。続けること、途中でやめないこと。
そのためには、移動してどこかへ行き、非日常で集中してもらうこと。
直接の言葉や触れ合いでしか得られない何かを提供し得ること。
そのために、ここにいることが必要だと。
そう気づいてから、またあらたな気持ちでやり直すことを決めた。
そもそもコロナは、自分自身の非力さの成れの果ての言い訳。
自分がダメだったことを、コロナがなければやり過ごしていただろう。
コロナに感謝などしないが、この試練は人間の傲慢さを戒める機会になったのかもしれない。
ただ...
罹患されて苦しむ方々、人生を終えることになった方々には言葉に尽くせぬ気持ちしかない。
早く嵐が過ぎることを願って。




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