対外的にも対内的にも言える事ですが、
「分け隔て無くつきあう」
というのは詭弁や嘘八百、宗教的なデタラメでしかありません。
もし分け隔て無くつきあう、というならば、我々は犯罪者のような鬼畜外道も、世のため人のために働いてる崇高な人格者も同等に扱わねばならなくなります。
それのどこがいいのでしょうか?
とりあえず対外的にどうあるべきか?
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思うのだが、
「何時の隣人を愛せよ」などという戯言は、たぶん宗教的な考えではないだろうか?
その宗教というのは何なのか、と考えてみると、
『現実を無視している』
『有るのかどうかわからない死後の世界を基準にしている』
『存在するのか怪しい存在(神や悪魔)を前提にしている』
というのが共通しているところ。
そんなもん基準にしたら、現実的な提案など何一つできませんわな。
宗教、特にキリスト教、その母体となったといわれるユダヤ教なんかは、特にこういう詭弁をふるっているように思える。
実際にこれらの宗教が何を教え説いてるのかは知らないが、俺も耳にするような言葉を総合すると、『乞食の戯言』にしか思えない時がある。
あるいは『犯罪者のいいわけ』というべきか。
「俺はやってない」というあれだ」
共通するのは、
「相手の善意につけ込む」
「人間として当然の扱いを要求する(自分が犯した罪を無視して)」
「相手に何かを貢がせ、自分は何も出さない(自分が何も持ってないことにして)」
「自分では決して働かない」
こんなところだろうか?
乞食にしろ犯罪者にしろ、世の中に貢献しない連中というのは、こういう部分が共通しているように思える。
そしてそれを後押しするのが宗教なのだろう。
後押しするために宗教を作ったのかもしれない。
神というものがあり、審判があり、極楽と地獄がある。
それらを使い、「俺たちに貢がないと、死んだら大変なことになるぞ」と脅迫する。
まあ、なんともふざけた話だ。
そもそもあるのかどうかわからない極楽地獄というのを使うのがおかしい。
また、いるのかどうかわからない神・悪魔を持ち出すのもおかしい。
そもそも死後の世界なんてのを、生きてる人間がどうやって知ることができるのか?
そんな当然の疑問にも言及しない。
何より、
いったいどうやってこれらを証明するのか?
証明されない以上はどこまでいっても「そうかもしれない」という仮説・作り話の領域を出ない。少なくとも「わからない」という見解しか出せないだろう。
しかし宗教を信じてる連中は、あるのかどうかわからないものを「信じて」いる。
個人的に信じるのは問題ない。
しかし、信じた何かを基準にして行動するのは間違ってる。
何より、信じている事を他人に押しつけるのは、相手の良心を踏みにじっている。
そんな連中は「神の示した道だから」などと言って
善意という名の横暴を実行する。
その一つが「分け与えよ」だろう。
これが特に出てくるのは、金持ちから貧乏人への寄付である。
何が最悪かって、分け与える方の事を何一つ考えてない事である。
貧乏人は自分で働くこともせずに「くれくれ」と要求しているに等しい。
また、こんな事を扇動する宗教家もそれが当然と思っている。
こういうのを見るたびに常に思うことがある。
「だったら、扇動しているあんたが施せよ」と。
たいていの場合扇動してる連中は金を持っている。少なくとも貧乏人よりは持っている。ならばこいつらが率先して持ってるものを全てはき出せばいい。残念ながらそんな事をした連中がさほど多くはないようなのが現実である。
また、こういう宗教家どもは大きな過ちを犯していることに全く気づいていない。
それは、
「誰かに要求するが、
自分で働こうとはしない」
ことだ。
宗教の基本は「他人への依存」である。
俺が知る限り「自分で努力する」というのはない。
神の善意にすがり、神の意志(と勝手に決めつけた何か)通りに世の中が動くことを願い、この世で楽をしようとする。
そこに「自分が働き、自分の力でのし上がる」という発想を見いだすことはできない。
それは社会主義や共産主義、いわゆる左翼思想にも見られる。
というか共産主義の生みの親であるマルクスはユダヤ人。
根底にユダヤ教の考えがあったのだろう。
そして俺の知ってる限りでは、ユダヤ教の教えはそのまま共産主義である、としか思えない。
俺の知ってることなんてたかが知れてるけど。
ただ、十分の一税という考えは「ああ、共産主義だな」と思わせる。
記憶が正しければ、それは次のようなものだったはず。
「神に全財産を捧げよ。
そうすれば、全財産の十分の九(90%)が返ってくるだろう」
これが「寄付の精神」「稼ぎの10%は他人のために使いなさいよ」という教えなのだそうだが、そんな事はあるまい。
他人の稼ぎを没収するための教団側の詭弁だろう。
そもそも10%を払うだけなら、最初から
「神にあなたの稼ぎの10%を差し出しなさい。そうすれば神はより大きな報いを与えるでしょう」
とでも言ってればよろしいのだ。
共産主義も社会主義も同じような考えだ。
今度はジャン・ジャック・ルソーから。
「まず自由を提供せよ。そうすれば自由がやってくる」
こんな言葉がたしかあったと思う。違ってたらごめん。
でも、自由を提供してどうして自由が戻ってくるのか?
自由を提供したら。終わることのない隷属しかないではないか。
それを実行したのが共産主義国であろう。
自由を国に提供した後には、国による命令・統制・独裁が待っていた。どこにも自由はなかった。
強いて言うならば、国家・政府・
官僚にだけ自由があったというところだろうか。
話を戻してマルクスだが。
こんな考えであるユダヤ教をすえているユダヤ人なのだから、出てくるのが共産主義であっても不思議ではない。
キリスト教もユダヤ教が母体になってるというから、その残滓があっても不思議はない。
それが偽善者としか思えない聖者ぶりだろう。
そういう人間が多いに越したことはないが、我が身を犠牲にしても、というのはご勘弁願いたいところ。まずは自分を大事に、それから他人も大事に、くらいで世の中はちょうどいい。
何にせよ、宗教が説く耳障りのいい言葉には注意が必要だ。
宗教は、利他・奉仕が大切などとほざくが、これほど非道な言葉はない。
利他の「他」とは「宗教団体」の事である。
奉仕の対象は、教団である。
そして、一人一人の心や人生、人格や生活は全く無視される。
宗教とはそういうものである。
そして宗教が説く、あるいは道徳的に語られる次の言葉には絶対に耳を傾けてはいけない。
これのおかげで日本はひどい目に遭ってるのだから。
「人の嫌がることをしない」
・・・・・・相手を選んでものを言え。
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