今更な話題で恐縮ですが、ライトノベルの『
涼宮ハルヒの憂鬱』を先月読了した
。
(今は2冊目と3冊目の『溜息』,『退屈』までを読了済み。)
『
涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメ版をTV放送で見かけて以来、「原作は読んで見よう」と心に決めておりました。
アニメ版はまだ全部を観れてはいないのですが、原作を読んだ後にチェックし直そうと考えております。




原作版の1冊目『
憂鬱』を読んで見た感想としては、「人気のある作品なので、それなりに面白いんだろーなぁ」とは予想しておりましたが、予想していた以上にずっと面白かったよ。

「ぬるいファンタジーかも?」と言う不安もありましたが、ちゃんとSFしておりました。
ファンタジーの手法の1つに、現実の中に非現実を描く方法があります。
この作品では登場人物たちが非現実の世界に逃避するのではなくて、現実の良さも評価して現実世界に戻って来る所に、個人的には大いに好感が持てました。


オタクが陥りがちなパターンの1つに、物語世界(この場合は他人の物語世界)に引きこもったり逃避したりして、自分の現実世界(つまり「自分自身の現実」と言う物語世界)をないがしろにしてしまうパターンがあります。
しかしそれでは、物語を見たり聞いたり読んだりする意味が無いと思います。
物語と言う他人の価値観 , 他人の経験
(この場合の「他人」は架空の人物でも可)を疑似体験した後は、必ず自分の現実世界に立ち戻って自分の現実の物語を紡ぐべきであります。

自分の現実世界を生きる時に、かつて見聞きした他人の物語がほんの少しでも役に立てば、物語を見聞きした意味があるんだとおいらは思います。
この小説のラストはそんなことも暗喩しているのではないか?とも思えて、個人的には大いに好感が持てました。
幸せの青い鳥って言うけど、
ハルヒは望むものを実は既に得ているし、語り部の
キョン自身もいつの間にか望んでいたポジションにいるし、それは他の登場人物達にもある程度は言えることだと思います。いいラストだと思います。
以下、ややネタバレあり。注意 !! であります。
但し、
朝倉涼子に限っては例外のようであります。
朝倉はハルヒの望んでいた存在であるのにもかかわらず、任務を遂行するために自らの正体をハルヒには明かせません。その為か、朝倉はハルヒからは求められずに無視されてしまいます。
その一方で、本来ならハルヒからは無視されるべき筈の普通人のキョンが、何故かハルヒに受け入れられてしまいます。
(その理由は3冊目の『退屈』に収録の短編『笹の葉ラプソディ』に描かれているようでもあります。)
そんなキョンが朝倉には許せない。本来なら自分の方こそが、ハルヒから望まれる存在の筈なのに。
業を煮やした朝倉は、キョンを消そうとします。しかし逆に、
長門に消されてしまいます。
・・・・・ところが皮肉なことに、
朝倉はいなくなって初めてハルヒに興味を持たれます。いる時には全く関心を持たれなかったのに・・・。
朝倉涼子にはどんな暗喩が込められているのでしょうか?
続編の全てをまだ読み終えてはいないおいらには、まだよくは解りません。おそらくは先の展開の楽しみでもあるのでしょう。
終盤のヤマ場でキョンは言います。「俺は何だかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだったんだな。(中略)そこに消えちまった朝倉を含めてもいい。」と。
朝倉には後に救いがあっても良いような気もします。
そんな訳で今は、朝倉の再登場する4冊目の、『
涼宮ハルヒの消失』を読んでいる所であります。(^^)
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