○天理教よふぼくの集い●

僕は、小さい頃から足が不自由で様々な神様や仏様におすがりしてきましたが、四年くらい前(2006年11月時点より)にもうない命(人生に絶望して、いつ死のうかという毎日でした)を天理教の神様に救けていただきました。その御礼をこめて、毎日のひのきしんとしてこのブログを書かせていただいています。自分自身の体験談や、お道の御教え(三原典)をもとにした日々の心づかいなどを練り合いさせていただきましょう!!(^o^)

 

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投稿者:ひろ
こだわっているのは、基本さん、あなたのほうですよ!!

僕は、命の無いところを親神様おやさまに救けていただきました!!
そのきっかけを作って下さったのは、50年という長の道中、神一条、道一条をお通り下された『理の親』さんのおかげなのです!!
それゆえ、僕自身も現在、“理の子”をお与えいただき、毎日毎日必死の思いで難儀な道中を喜び勇んで、お道を通らせていただいています!!

ゆえに、僕の書かせていただくことは誰の受け売りでもありません!!
実体験を元にした真実の話なのです!!
投稿者:基本。
肝心なのは、一用木として、すでに人を導くと言う立場で、この場所で語られているわけです。
と、なりますと、きちんと信仰の基準を、おやさまと、真柱様に置かないという事では、嘘と言うものになります。

うそは、いけないことと知っているのなら、自分を、自分の因縁そのものから、目をそらさない姿勢を、
導く人としての、信仰の有様の中に、きちんと示してください。
「理の子」という言葉を持ち出すと言うところに、危ういものがあります。
投稿者:基本。
「理の子にみせられるもの」という事、それじたいが、おやさまの教えに無い事で、
本当の親子や、夫婦、兄弟に見せられるものが、「いんねん」の本質。

どうして、すりかえに走るのですか。
「いんねん」を逃げているという事では、たんのうには、ならないと思いますよ。
投稿者:基本。
ひろさんが、そうやって、理の親にこだわると言うのは、「執着である」。
つまり、埃という事。

おやさまの教えの本筋でないものに、どうして、そんなにこだわるのですか?

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