幕末の医師・三村玄澄について、あれこれと書いてみます。
玄澄は寛政4年(1792年)に浪越・鉄砲塚(現・名古屋市東区相生町)で生まれました。父親は小西屋長兵衛、家業は薬舗でした。
先ず、玄澄は尾張藩儒者・奥田鶯谷に学び、13歳になって鍋屋町の奥医師・浅野春道に入門し、内科学を学びました。(浅野春道は尾張本草学の発展に尽くした人であり、伊藤圭介は孫弟子にあたります。)
文政9年(1826年)頃、思い立って紀州・華岡青洲に入門し、4年間外科学を学んだ後に、戻って伝馬町で診療を始め、大いに人望を集めました。(玄澄の屋敷のあった場所には升半本店が建っており、お店の前に顕彰碑が建っています。お願いすると、玄澄と升半についての詳しいパンフレットが頂けます。)
天保5年(1834年)に初めて目見を許され、その後に奥医師、次で侍医となりました。
嘉永の頃に出された医家番付には西方大関として載っており、伊藤圭介は前頭になっています。好生館病院より一昔前の話です。
没年は嘉永6年(1853年)、お墓は平和公園の関貞寺墓地に有り、並びには小西家のお墓も建っています。関貞寺は片山八幡神社の直ぐ西にあり、北は坂になっていて、昔は景勝の地でした。書院からは美濃・越前・加賀・近江・三河・信濃・尾張の七州が一望でき、桂太郎に依り「七州閣」と名付けられたとのことです。伊藤博文も「游関貞寺」と題する詩を残しています。
三村玄澄肖像
華岡青洲肖像
三村玄澄顕彰碑(升半で頂いたパンフレットより)
嘉永の頃の医家番付


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