あれだね、人ってのは、日々抑圧を受け続けると、
確実におかしくなるもの・・・。何らかのダメージを確実に受けるもの、
なのよね。
抑圧は抑圧として、しっかりと自身で覚え、そして逃げるなり、
少しの間であるならばという条件で耐え得るならば、耐えるなりしないと。
そう、きちんと「これは抑圧です。私にとって」
と自覚することってのは、実は大切なのね。
だから、時々、週の真ん中水曜日レディースデーに休んで映画を観ても
いいんだよね、
と、
ずっと去年から楽しみにしていた映画、「サスペリア」を見終えて
うっすら思った。
いいんだよね。ね。
そんなことをうっすら思う前に、まず、この映画についてちょっとだけ触れさせて。
嫌と言っても触れるぜ。ネタバレはしないから。
と言っておいてするから多分。きっと。
でも、70年代のサスペリアを観たことがあるってのを前提にね。
(あくまでも個人の感想です。)
そして多分長くなります。
ならないように気を付けて書くつもりはありますが。
☆
とても素晴らしかった。
1977年のドイツという時代背景を本当に上手く生かしているし、
街でのシーンは少ないけれど、その少ないシーンの中で、
その当時のドイツの雰囲気が
住んでもないくせに何故か涙が出るほど懐かしく伝わってくるし、
それがあってこそのこの映画であったわけだし、
私は前のサスペリアと同じくホラーかと思っていたけど全然ホラーじゃないし、
赤という色が、前にもまして好きになるし、第一、
ヒグチユウコ女史の日本版のポスターは、とんでもない素晴らしさで鼻血もんだし
定価三千円のそれが既にとんでもない値段が付きだしているらしいのも
きっと魔女の仕業だし、
どうせならクライマックスシーンをもっとリアルに描き切っちゃって、
ホラーとかの色合いなんか無視してガンガン思いっきり
作ればよかったのになぁ〜って思うくらいだったし、
その方が、「正にホラーでしょう。(断言)」ってなって良かったのになぁ
と思ってしまったくらいだし、
私としてはそれが唯一の残念な点であったくらいで、
舞台(含・セット)も、役者も、衣装も、もう申し分なく素敵で、
今年はこれを超すもの自分の中でもう来ないんじゃね?と、
今年1月にこれを観たことを後悔するくらい素晴らしい作品だったのよ。
この作品は、以前のサスペリアのリメイクなんてもんじゃなくて、
全く別物であったということが、一番の驚きで、嬉しかった。
さて、そろそろ真面目に。
★
おおまかな設定は同じ。
1977年、当時のドイツ(西ドイツ)が舞台であることは同じなものの、
でも、そこに諸々の当時の社会背景を絡ませて来ている。
ストーリーが展開してゆく舞台となっていたクラシックバレエのバレエ学校は、
前衛舞踏集団であるダンスカンパニーとなっているし、
それに、ホロコーストの名残や、
当時実際にあった赤軍の事件をうまく絡めるているあたり、
最初のサスペリアが公開された当初の雰囲気を、より強くあぶり出している。
クラシックバレエよりも、前衛舞踏集団のほうが、しっくりくるしね。
それらを匂わせる最初のシーンからして、
前のサスペリアとは別な結末を持つ、全く異なるストーリーであることは
想像がついた。
また、それを絡めて来ている分、前回のものよりも、ちょっと複雑で
少しウェットに、そしてリアルになっている。
そういった社会背景的なものがなくシンプルな昔のサスペリアは、
その分といったら語弊があるかもだけど、色が鮮やかだった。
(アイリスの青をきわだたせるロココ調の校長の部屋とか、
おどろおどろしいアールヌーヴォーやアールデコの窓やドアとか)
しかし今回のものは、始まりからずっと地味な色が流れ続ける。
そう、色。
晴天の少ないであろうベルリンの空も、
主人公の彼女が育ったオハイオの家のイメージも、
学校も、ベルリンの壁も、全てグレーがかったどんよりした色だ。
そんな、ある意味リアルな空気感を出す、色彩に欠いた風景の中で
ストーリーは進む。
それゆえに、時折視線に入る料理や血の「赤」は、とてつもなく鮮やかに映える。
赤。
特に、クライマックスシーンへ向かうための重要なシーンとして、
ダンスの公演シーンがあるのだが、
「VOLK(民族)」という公演名を持つその舞台での
ダンスカンパニーの彼女たちの衣裳の異様さと言ったらない。
ベージュのショーツ以外は、
縛り付けられたような赤の紐でできており、
その衣裳を纏って踊る彼女達のダンスは、さながら
真っ赤な血をしたたらせ臓物を体内から出しながら踊っているかのように見え、
表現のしようの無い恐ろしさを含む神々しさすらあった。
クライマックスのシーンにおいて爆裂するその赤は、あまりに強烈で、
暴力的というよりは、
命の暖かさすら感じさせる畏怖を持って噴き出されるように見える。
そこは、
本来私達人間はこんな色でできているんだ・・・と、
薄い皮膚一枚隔てた下の自分の肉体の脆さと鮮やかさと生温かさを
嫌でも思う事を強いらる瞬間でもあった。
映画の中では、
それを行う者、見ている者、それらの証人、関わる人、
ベルリンという特殊な街の人、そして、おそらく当時世界中にいたであろう、
かつての抑圧や、それゆえに失ったものに傷ついたり怯えたりしながら
何とか生きようとする人たちの内面もが、少しではあるが強烈に描かれる。
それが、この映画における赤い色と同じくらい印象的だった。
ざっくり言ってしまえば、この映画のストーリーは、
その当時のドイツという特殊な環境の中で生息する姑息な魔女たちに、
アメリカから来た主人公のラスボス大魔女がどっかーん、お仕置き・・・
なのである。けど、
えーそうなの?って思うともうそれだけで「嫌な感じ!」と、
私みたいな奴は一瞬思ってしまうけどね、
いや、そんなちっぽけな意味なんかじゃ、勿論、ない。
抑圧された、「赤」だ。
すまない。
もっと人間の言葉で詳しく説明したいんだけど、難しいな。
厳格なメノナイト(キリスト教の一派。徹底した平和主義、非暴力、起源はヨーロッパ)
の家庭に育った主人公にも、「母」という大きな重石があった。
厳格なメノナイトの家庭に育った・・・というこの一言だけで、
ベルリンに来るまでの彼女で一本の映画が作れる。
その、徹底した非暴力を謳う環境で育ったはずなのに、
主人公への母からの虐待があったことが映画のワンシーンから読み取れる。
「彼女(主人公)を産んだことが、私の最大の罪」
とまで母に言わせた主人公の存在の怖さを知る母も、やはり「魔女」
以外の何物でもないだろう。と、母の自白シーンで突っ込む私。
何故そのような厳格なキリスト教徒の中から?と思うかも知れないが、
そもそも、メノナイトから分かれていったアーミッシュしかり、
彼らのそう遠くない祖先がヨーロッパからの移民であることを思えば、
その血が受け継がれていっても何の不思議もない。
映画を見ながら、なるほどそっか〜と、親父の様に頷いてしまった。
ま、そうでなくてもね、
仮にね、もし自分が魔女なら、どこに大事な分身を発生させる?
抑圧され、密か内面に沸騰する感情を転移させる何かを激烈に求める環境こそ、
魔女を育てるのに適した絶好の環境は無いと思う。
当時、そんな厳格な生活が成り立つのは、
正直ヨーロッパじゃきつかったろうなぁ、と思うのは私が無知だから?
ヨーロッパよりもアメリカの方が、そうした環境はあったんだと思う。
★
そして、
そんな「厳格さ」というのに馴染むように命は造られていないって。
映画を見ていてふと思った。
ありとあらゆる母は(女は)「魔女」になり得る と。
当然、「魔女」というものを生み出したヨーローッパの歴史にも
その背景は広がってゆき、いずれにせよ「母」というものにぶつかる。
この映画に、メインキャラでの男性はたった一人というもの、
なるほど道理に合っている。
力で到底及ばないほどの強大な相手に対峙するときの小さな弱い存在が、
どう生きなければならなかったかを思うと、
そこに、本来の姿からとてつもなく乖離したゆがんだ母の姿すら見える。
先ほどざっくりまとめたこの映画のストーリーに付け足すのならば、
主人公の、このゆがんだ母の愛から自分を切り離し、
自分が何者かを知ってゆく物語・・・なのかもしれない。
それは物語になる。
何故?答えは簡単。それは簡単な事ではないからだ。
実際、彼女も、抑圧から解放されたくて故郷のオハイオ(母)から
逃げ出して、ベルリンのダンスカンパニーに来たが、
そこから、そこで知ることの意味の方が大きかったのだ。
かつでアメリカで公演を観て憧れ、追いかけてベルリンまで来て、
そこで彼女は、本当の自分を知ることとなる。
やるべきただ一つのことを見つけることになる。
これ以上は、書きたいけれど、それぞれ観た人で感じることは違うと思うので、
我慢しよう。
あ、でもちょっとだけチラ見せしたい、いや見せてしまう。
本当に“I know who I am!”と知った時の彼女は、とても美しいのだ。
(おそらくあのシーンがその時だろうな、という瞬間と場面がある)
その時には、
彼女は“I know who I am!”などと叫んだりはしなかったから。
当時の歴史的背景しかり、
何らかの抑圧から生まれた憎しみが、形を変えて、ゆがみを生み出してゆく。
そういうゆがみを生む背景は、今でも着々と息を潜めて生息し、成長している。
このいま、この瞬間も、いつも、常に、すぐそこにある。
在るということは、どうしようもない事実であって、
この事実こそ、人が人たる所以だけど、
人がコントロールできることではないレベルになっていたら?
大事なことだから、小さい声で言おう。
生まれながらに持つ「生(命…「赤」)」を謳歌する本能が、
抑圧されゆがめられる限り、魔女は現れる。形や姿を変えて。
★
最後に、好きなシーンをちょっと紹介。
凄惨な儀式のシーンの夜が明けた朝、
昨夜の黒と赤の世界からまた一転、
画面は、雨に溶けたような水っぽい雪景色のグレーの街を一瞬うつした
そのあとのシーン、
生き残った魔女たちが、凄惨な儀式の後の血まみれの広い地下室を、
慣れた手つきでホイホイと掃除している姿がうつるそのシーン・・・、
不謹慎だけれど、少し可笑しかったそのシーン、
それによって、またこれからもこのダンスカンパニーが、魔女によって
続いていくことが示唆されている。
あと一つ。これが一番好きなシーンかな。
終盤、この映画での大事なキーマンであり、
そして唯一の男性メインキャラでもあるドクターが、
辛い過去から解放されるシーンがある。
全ての苦しみが去って、美しい思い出すら消えても、
そして、誰も知る人が居なくなったとしても、その事実は消えない。
量子力学的には、映画の中ではもうその事実は無くなっているらしいけれど、
こちら側で見ている私たちに、それを見せる。
私たち観客が、その人の、かつて存在した愛の証人となる。
だから、消えない。その事実は、あった。
あった。苦しみだけじゃなく、確かな愛が。
確かに愛があったんだよ、と、しつこいくらいに言う。
消えないでほしいと、消えることを知るからこそ、多分人は願うから。
前作にはなかった、魔女による、救済だ。
痛みは、永遠に吸い取られました。
★
本来、魔女は人々の救いだったはず・・・と、
映画を観終わった私はそう思った。
そのドクターの痛みを、ラスボスたる主人公が忘れさせるシーンでの言葉に、
「人には、罪と恥の意識が必要云々」ってのがあった。
ドクターのそれに関しては、
「でもそれはあなたが感じなくても良いこと」とも言っていた。
そう説明し、彼の痛みを、罪の記憶を消す。
では、それは、誰のものか?
この場合だと具体的に、単純にナチスか?つまるところヒトラーか?
いやそれを生み出した当時の社会か?
そんな類の自問自答が、あふれかえっているはずなんだ、本来は。
その答えを自問自答して、今日も生きているんだよね。
誰しもそんなことの一つや二つや三つや四つもあるかもしれない。
でも、
血をだらだらと流しながら・・・、
それこそ、臓物を垂らしながらも、生きていくしかない。
そうして、ぼくらはみんな生きている。
☆
まだ興奮してて文章も滅茶苦茶だけど、でも時間をおいてあたためても、
私のことだ、きっと何も伝えられない。
クライマックスシーンを、もっともっとリアルに描いてもらえればなぁ、
という思いがどうしても最後残ってしまったけれど、
それでも、この映画が良かった事には変わりなくて、
それを吐き出したかっただけ。
ただ、観てよかった。
監督の名前すら覚えられないけれど、作ってくれてありがとう。
こんな感想を持つ私はきっと馬鹿かもしれないけれど、
今日も生きています。ありがとう。
文章、やっぱり長くなってごめんなさい。
ものすごい勢いで書いたから、乱文ごめんなさい。
読んでくださって、ありがとう。
観た人、
ラスト、エンドロールの後の本当のラストで、
主人公は、何をしたと、あなたは思いましたか?