Fontana England SFL 14012-14 3LP
巨匠の「フィガロの結婚」と言えば、独.DGG盤が最も有名で然も名盤扱いなのだが、最初に聴いた時は、どうも理想的な表現では在るけども巨匠ならではの閃きに乏しく、品格は在るが何故か物足りない印象が在った。と言うのも全てが完璧に進行した演奏で確かに理性的なのだが、「それだけでは?」と言う感じがした。さりとて後からCD化となり、DVD化された放送録音等は別物なのでウィーン国立歌劇場の初来日公演となったものや1966年のザルツブルク音楽祭での演奏と共に素晴らしいのは否定しないが、デジタル・コンテンツと化したものは所詮は映像なので永遠性に乏しいと思う。つまり是から先も観れるかが不安なのだ。その点、此方で紹介しているものはアナログ・レコードやCDなので「其の点は違うのかな?」との認識は在る。最近、小生が経験しているのは、初期CDが経年老化が原因で再生不能となり、結局はアナログ盤で買い直したりしているからなのだが、あれだけ利便性と共に耐久性や永遠性を唱えたCDが、被面のメッキ部分の錆びが原因で突然聴けなくなるなんて実は思いも寄らないのである。是は小生だけの経験かも知れないが、このブログでは、やたらとアナログ盤ばかりを紹介しているのも実は其れが理由なのである。タイトルにも在るように此処ではフォンタナ盤のフィガロを紹介しよう。だがこの演奏は巨匠の同曲としては今ひとつ評価が薄いものだ。印象が薄いと言った表現が近いかも知れぬが、存在さえ知らない人も居るレコードだろう。実際、このレコードについては、「模範的で標準的と言う以外は特徴の無い演奏」とも評する批評家も居るのだが、小生は、そんな評論なんて宛にしないので素直に聴いた感想を述べるとしよう。収録は1956年、歌手のキャスティングは、パウル・シェフラー(Br.アルマヴィーヴァ伯爵) 、セーナ・ユリナッチ(S.伯爵婦人)、リタ・シュトライヒ(S.スザンナ)、ワルター・ベリー(Br.フィガロ)、クリスタ・ルードヴッヒ(Ms.ケルビーノ)、イラ・マラニウク(Ms.マルチェリーナ)、オスカー・チェルベンカ(B.バルトロ)、エーリッヒ・マイクート(T.バジリオ)、マーレイ・ディッキー(T.ドン・クルツィオ) 、カール・デンヒ(B.アントニオ)、ロスル・シェバィンガー(S.バルバリーナ)で、楽団はウィーン交響楽団であり、合唱はウィーン国立歌劇場合唱団である。収録年からモノラル録音だが、これは擬似ステレオ化されたレコードである。擬似ステレオと言うと相当違和感の在るレコードも多いのだが、是は成功例だろうか?音質もそう悪くない。針を下ろすと「やはりウィーンだな?」と感心させるものがある。なんかのんびりしているのだ。序曲が正にそんな感じで、テンポは寧ろ普通なのに実際の速度よりも遅く感じてしまう。音色も田舎っぽいので尚更だが、「古き良きウィーン」が其処に在る。幕が開いても印象は其のままだが、其れが良い。ワルター・ベリーも演技は抑えて歌い崩しが無い。其れはスザンナのリタ・シュトライヒも同様だ。だから少し地味な感じも在るが崩さずに歌うのはたぶん巨匠の指示だろう。レチタティーヴォ・セッコのチェンバロは誰が弾いているか不明だが、適度に壷を抑えており好感が持てる。アルマヴィーヴァ伯爵はパウル・シェフラーだが、変に威圧感も出さず高潔な存在感を示している。歌手は全体に粒が揃っていると思う。役柄に違和感を感じる声質の歌手は居ない。尚、伯爵婦人のセーナ・ユリナッチは大らかで品格も充分なのだが、もう少し声に主張が在っても良い感じがした。見事なのはケルビーノ役のクリスタ・ルードヴッヒだ。この役で此処までの存在感を示す人はあまり居ない。それにしても巨匠の指揮は堅実で優雅だ。全盛期のレコーディングの演奏と言うと筋肉質で引き締まり、男性的なものも多いが、同曲でも1957年のザルツブルク音楽祭の実況盤が意外と堅苦しくて楽しめないので、是も「そんな感じなのかな?」とも思ったが、適度な緊張度でのんびり聴けた。DGG盤に違和感を覚えるのは其のせいか?円満具足にフィガロを聴きたい人にはお薦めのレコードだ。

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