名古屋における葛飾北斎の寄寓先であった弟子の牧墨僊(まきぼくせん)についてまとめてみよう。
牧墨僊は、安政4年(1775)に名古屋で生まれている。名は信盈、通称助左衛門または新次郎という。北僊・百斎・月光亭・北亭・斗円楼などと号した。
5歳で家督を継ぎ寛政8年(1796)江戸勤務を命ぜられた。江戸では、喜多川歌麿に師事し画を習った。文化2年(1805)師の歌麿没後、葛飾北斎の門に入り、北僊または百斎を名乗る。
のちに名古屋に帰り、北斎の代表作『北斎漫画』などの刊行を名古屋永楽屋に斡旋し、版の校訂を行い、名古屋の文化人として名が知られるに至った。
墨僊自身は、人物画を得意とし、著作には『写真学筆』がある。また、西洋銅版画を学び、寛政13年(1801)西洋暦を銅版で作成している。さらに伊勢の蘭方医越村徳基(士祥)がドイツ人医師ハイステルの著作から編纂した『瘍科精選図解』(文政3年(1820)刊)に銅版でハイステルの肖像などを作成した。この地区の銅版画の先駆者とされている。
文政7(1824) 死去。行年50歳。法名大寿院亀岩墨僊居士。万松寺に葬られる。平和公園万松寺墓地に墓がある。
*参照『名古屋市史 人物編』

葛飾北斎『北斎麁画』の奥付。「校合 門人 月光亭墨仙」の名前が見える。
*参照 金沢美術工芸大学「絵手本DB」

平和公園万松寺墓地の牧墨僊の墓

万松寺墓地

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