『古事記伝』や『北斎漫画』を刊行した永楽屋東四郎は、名古屋風月堂から暖簾分けした書肆である。その名古屋風月堂は、京都の書肆風月堂で修行した長谷川孫助が、貞享期に開業したものである。初代の孫助は、夕道という号で俳諧も嗜み、貞亨4年(1687)12月3日、名古屋を訪れた芭蕉を雪見の宴(新年会)に招いている。手厚いもてなしに対し謝意を込めて芭蕉が詠んだ句が「いさ出ん 雪見のころぶ 所まで」である。その時夕道に与えられた懐紙が現在に伝えられて残っている。その全文は
書林風月と聞きしその名もや
さしく覚えて、しばし立ち寄
りて休らふほどに、雪の降り
出でければ
いざ出でむ 雪見にころぶ 所まで
丁卯臘月初、夕道何某に贈る
とある。
この日の句会は、大垣の門人近藤如行(じょこう)が
「
霰かと またほどかれし 笠やどり」
と発句を詠み、夕道が
「
夜の更るまゝ 竹さゆる聲」
と脇をつけ、以下名古屋の門人山本荷兮(かけい)・岡田野水(やすい)と付け、最後に芭蕉が付けた。(『如行子』)
芭蕉の「いざ
出む 雪見にころぶ 所まで」の作は、「いざ
行かむ 雪見にころぶ 所まで」(『笈の小文』)「いざ
さらば 雪見にころぶ 所まで」(『花摘』)と推敲されて、最後の句が決定稿となった。
なお、夕道の句は、『あら野』・『熱田三歌仙』などにその作が残されており、
「
傘に 齒朶かゝりけり え方だな」(『あら野』)
というのが代表作であるそうだ。

芭蕉懐紙 風月堂に伝えられたが現在は別の個人によって秘蔵されている。

『尾張名所図会』芭蕉翁故事の図

名古屋市 法生院(大須観音)の句碑「いざさらば雪見にころぶ所まで」仁王門の東に建てられている。

『芭蕉吉野行脚図』芭蕉没後2年の元禄9年(1696)弟子の鼬翔(せきし)によって描かれた芭蕉45歳の時の旅姿

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