瀬戸電には、昔、「社宮祠(しゃぐうじ)」という駅があった。現在の森下駅と尼ヶ坂駅の間である。東京に、石神井(しゃくじい)という地名があるが、語源は一緒だろう。石神(せきじん、しゃくじん、しゃくじ)信仰の名残ともいう。『石神問答』を著した柳田国男は、石神=しゃぐうじという説には同調していないが、塞神(さえのかみ)として村の境界に祀られた原初的・土俗的な神信仰の一形態だというような推論を展開していたような記憶がある。たしかに、江戸時代の村絵図をみると、“しゃぐじ”とか“しゃぐうじ”という祠が村々の境目に記されていることが多い。
さて瀬戸電の「社宮祠」駅の由来はどうか。文政年間に著述された樋口好古の『尾張徇行記』の春日井郡「杉村」の項を調べてみたら、「見取田畠4畝10歩、西杉村シャグジにあり」という記述がある。(「見取田畠」というのは、劣悪な土地で毎年出来具合をみて年貢高をきめる田畠のことをいう。)
『尾張徇行記』では、「社宮祠」という祠があったことには言及していないので、よくわからないが、「三狐神(みけぬかみ)」の祠の所在が記されている。お稲荷さんではないかと思うがはっきりしない。
ゆかりさんが探し出した伊藤万蔵奉納の「伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)」の石柱は明治以降のものだが、明治より以前はどうであったのだろう。現在、この石碑の建てられている祠は、赤塚の北側から北西に、国道19号に対して斜めに交差している道を行き、市立工芸高校の東側の坂を下ったところにある。お供え物はあげられており、信仰は続いているようだが、祠は荒れている。
記紀には、鏡作連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で、三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」を作った「伊斯許理度売命」が記述されている。なぜ「伊斯許理度売命」を祠に祀ったのだろうか。「社宮祠(しゃぐうじ)」が先にあって、あとから「伊斯許理度売命」を祀ったような気もするがわからない?
少し西南の市立工芸高校の崖下にある「義市(よしいち)稲荷」という神社があるが、こちらも「しゃぐうじ」の候補ではある。「義一稲荷」の管理をしている隣家の方にお聞きしたら「しゃぐうじ」と呼ばれたのは「伊斯許理度売命」を祀る祠の方ではないかというが、これもはっきりしていない。しかし、石に関連している「伊斯許理度売命」を祀る祠の方が何となくふさわしい感じはする。
何か情報が得られないかと瀬戸電の線路際にある喫茶店で経営者のおばあさんに聞いてみたのだが、35年ぐらい前に移り住んで開業したのでわからないということだった。移り住んだときには、すでに「瀬戸電」の「社宮祠」駅もなかったそうだ。ただ喫茶店の隣のビルが「社宮司ビル」というそうで、唯一の名残りだそうだ。「社宮
祠」ではなく「社宮
司」の字を使っているが。

「社宮祠」?

「伊斯許理度売命」と寄進者の「伊藤万蔵」の刻銘

「社宮司ビル」だ。

「社宮司ビル」の全貌。

市立工芸高等学校北の「義市稲荷」

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