八代目玉屋庄兵衛(本名高科正夫)は、私と同年の昭和25年(1950)に生まれている。25歳の時に家業を継ぐことを決意し七代目の父親に弟子入りをする。七代目は、厳格な生粋の職人で170年前の幻の「茶運び人形」を復元し、祇園祭唯一の山車からくり「とうろう山」をはじめ、全国の眠れるからくり人形を修復し、現代に蘇らせた人物である。その七代目の技術を学び取りながら、新しい視点で現代のからくりづくりを目指した高科正夫は、昭和63年(1988)に八代目を継ぐが、平成7年(1995)には、45歳の若さで癌により他界した。しかし、そのわずかな間に200体に上る作品を精力的に制作し、死の間際には、弟に玉屋庄兵衛の名を譲り、初代萬屋仁兵衛として羽ばたいた。
玉屋の歴史は古い。初代の開業は、享保19年(1734)に遡る。現在の九代目に至るまで代々の後継者をつなぎ、家業として、からくり人形師・玉屋庄兵衛の名を残してきた。
さて、八代目玉屋庄兵衛は、からくり人形師を志した時、ひたすら能面を彫ることから始めたという。次に仏像彫刻で六面体を修得し、さらに顔を描くための日本画を修得する。それから衣裳の時代考証などの歴史を学び、その後、機械工学的な技術を学ぶ。彫刻・絵画・衣裳・指物そして機械工学。からくり人形師に要求されるものは、芸術性と精密な工学技術であり、異なった領域の文化の融合である。
1987年のストックホルム、パリでの海外公演の成功の逸話がある。観衆は、杭の上を歩く人形やお茶を運ぶ愛らしい人形を見て、「磁石がついているのか」「ロボットなのか」と驚き、仕掛けや材料を見せるとさらに驚嘆の声が沸き起こり、これが何百年も前の日本独自の技術で作られたものだと聞かされて、われんばかりの拍手喝采をしたという。八代目は、あらためて日本の伝統文化を担う自分の役目に誇りを感じ、新しい意欲に燃えたという。「人には挑戦というものがある。古い人形に命を吹き込むことだけでなく、新たな挑戦もしてみたい。そしてこのからくり人形を日本全国の人々に知ってもらいたい」という信念は、コンピュータ制御、ドラマ仕立ての人形芝居、シンセサイザー音楽の導入など様々なアイデアとなり、傑作を誕生させていった。名古屋デザイン博の「橋弁慶」、万松寺の「織田信長」、名古屋水族館の「浦島太郎」などの代表作の制作へとつながった。
現在、「為三郎記念館」で行われている「八代目玉屋庄兵衛の世界」展で購入した絵はがきや案内チラシに掲載されている作品を紹介しよう。

「茶運人形」座敷からくり 1994年 ぜんまい式

「御所人形 猫遊び」座敷からくり 手廻し

「唐子人形」山車からくり 1991年製作 ぜんまい式

「武者人形」山車からくり 1992年製作 糸からくり

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