スーパーストアでたまに「八雲牛乳」という銘柄を見つけると購入してくる。「八雲」は、名古屋にゆかりのある北海道の地名である。
明治11年(1878)旧尾張藩主徳川慶勝は、禄を失った旧藩士の授産のために、政府から北海道渡島半島の北部に150万坪の土地の下付を受けて、藩士を移住させた。これが「徳川農場」の始まりである。移住者数は、明治14年(1881)には47戸、260余名だったという。
「八雲」という地名は、『古事記』の「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌から徳川慶勝が、明治14年(1881)に命名した。
農場では、牧畜も手がけ、混同農業を行い、加えて味噌、醤油の醸造にも着手した。尾張八郡を象徴する尾張藩の印「丸八」を創業の商標と定め発売した。昭和2年(1927)旧尾張藩士・服部家により醸造業が開業されるにあたり、この商標を下賜せられ、現在の「服部醸造」に至っているという。
徳川農場の後も石川農場・大関農場の開業が相次ぎ、第一次大戦後の不況対策として酪農を振興させ、大正末には乳牛七百頭近くまで達している。
私が子供の頃、名古屋栄の「オリエンタル中村」(現三越)で、「アイヌ民族展」というのを見た覚えがある。会場に、民族衣装を身にまとい、入れ墨をしたアイヌの男女がいて、ぬいぐるみのような愛らしい小熊がつながれていたのを覚えている。当時、伊藤久男という歌手の「イヨマンテの夜」という歌謡曲も流行っていたのも覚えている。家には、北海道土産の結構大きな「鮭をくわえた熊」の木彫りの置物があった。
この「木彫熊」は、慶勝の義孫・徳川義親が、大正12年(1923)スイスから観光民芸品の「木彫熊」をもち帰り、これを手本に農民に冬期間の副業として作るよう勧めたのが始まりである。翌13年(1924)この「徳川農場」から、北海道産「木彫熊」の第1号が誕生している。こののち旭川近郊のアイヌコタンでも昭和の始めごろから熊彫りをするアイヌが増え、やがて全道各地で作られるようになったという。観光土産品として大量に生産されるようになったのは、昭和30年代からということだ。ちょうど私が百貨店で「アイヌ民族展」を見た頃である。


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