先日、伏見の商工会議所に行ったあと、広小路通りから北へ向い、伝馬町筋を東に折れ、島田町・長者町と行き過ぎ、本町筋まで歩いた。現在、伝馬町と本町の交差点の北西側に、記念のプレートが残されている。「伝馬会所と札の辻」の記念碑である。江戸時代には、この場所に「伝馬会所」があり、「高札場」が設けられていた。「伝馬会所」は公用の人馬の取次所であり、美濃路の「清洲宿」と「熱田宿」の間の物資の輸送を請け負った。「高札場」は、様々な御触書が掲げられ、民衆に周知徹底させるために人がもっとも集まる場所に設けられた。「札の辻」と呼ばれる地名は各地に残っており、いずれも「高札場」があったところである。
「札の辻」の記念碑に記された文章の内容を記して置く。
「伝馬会所 札の辻」
慶長十八年(1613)、本町通伝馬町筋の交差点に荷物の運搬に必要な人馬を継ぎ立てる伝馬会所が設けられ、また、寛文五年(1665)には、名古屋と江戸の間の書状物品の定期輸送を行うため、飛脚会所も設置されました。
ここは、名古屋の中心で、「尾張名所図絵」には「官道の馬継所なり。京の方、清須宿へ二里、江戸の方、熱田宿へ一里半、慶長十八年より宿駅となる。旅籠屋も玉屋町にありて、東西南北の岐なれば、京大阪より吾妻へ下る官人も、伊勢路より信濃のかたへ通る旅客も、公私を論せず、みな此所を往来せずといふ事なく、又町の中央」と記してあります。名古屋からの距離はここを基点に測定しました。
正保元年(1644)には、法度・掟書などを記した高札を掲げる高札場も交差点の東南角に設けられ、これにちなみ、この地点を札の辻とよびました。
旅籠屋は玉屋町にあったと記されているが、現在の「錦三」のあたりであろう。名古屋宿という言い方もされるが、普通の宿場町のように「本陣」「脇本陣」は置かれてはいなかった。

「札の辻」跡には現在、「尾張名所図会」の場面が復刻され、記念碑として残されている。


『尾張名所図会』「伝馬会所・札の辻」の項。(明和高校図書館蔵)
絵図の中に書かれた言葉は、
「この辻のおきての札はなまよみのかひの黒ごまつなぐ馬士かな 琵琶彦」
とある。いくら、制札を立てても、馬子には文字が読めず制札の前に馬を繋ぎ止めているという諷刺である。

現在の「札の辻」の様子。江戸時代の様子を思い浮かべてみよう。

本町通りと伝馬町通りの交差点である。

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